魔法少女まどかまぎかに学ぶ自由に生きる論(ネタバレ注意)

たまにアニメを見返したりしてるんだけど、今観たらどんな気持ちになるのだろうと、振り返る意味も込めて「魔法少女まどか☆マギカ」を見返してみた。

 

このアニメとの出会いからはもう随分経つ。

 

当時、世間を賑わせたまどマギブームに乗っかったわけではない。

 

何となく「ひだまりスケッチ」の曲、「芽生えドライブ」が好きだったからだ。

 

それだけでは観ないようなものだが、当時はアニメにとにかく飢えていた時だった気がする。

 

1話、2話と普通のアニメより、よく分からない展開が続く。

 

そもそもいい歳頃の成人男性が「魔法少女」だなんてものを喜んでみている姿は、とんでもなくヤバイ。

 

ところが、このアニメは3話目にして、急展開を迎える。

 

導き役として、先輩として、エロ要員として、存在していたキャラが突然の首チョンパ

 

それから首チョンパされることを、マミられるという風潮ができたのはこのキャラの名前に起因する。

 

タイトルとのギャップに言葉を失う人も多かったはずだ。

 

しかも、今までのほほんとしていた内容にも関わらずここらへんから、毛色が変わり…

 

魔法少女でも結局、蘇生は行えない。

 

どこにも魔法なんてないような、「死」との隣り合わせをヒロイン達に焼き付ける。

 

そもそもタイトルが「まどか☆マギカ」なのにも関わらず、この世界軸のまどかは最終話でしか魔法少女にはならない。

 

あ、そうそう。

 

世界軸という概念がとても好き。

 

平行世界とか、パラレルワールドとか、タイムパラドックスとか。

 

このアニメも後半から畳み掛けるように、時間軸の逆行、時間遡行が浮き彫りになる。

 

ここらへんからがまさに話の本筋なのだけども、それがいかんせん後半過ぎて、少し退屈になる部分はある。

 

それを回避するために味方の絶望→敵キャラへの変貌なんかが織り交ぜられている。

 

最初から主人公の親友ポジションにいる、さやかは不遇のキャラで、人気もとても少ない。

 

それはなぜかというと、圧倒的にウザいのがわかるからだ。

 

本人の境遇もすごく切ないものだし、素直じゃなくても自責の念を持っているところは、俺としては愛着を感じた。

 

しかし、人気がないのもどこか頷ける。

 

登場当初は、いきなり殺そうとしてきたキャラが、蓋を開けてみるといいやつだったというギャップとか。

 

もっとえげつない輪廻の中で、悲しみを生き抜いてきたキャラにはパンチが足りない。

 

しかも、完全にメンヘラである。

 

発言や、行動すべてがめんどくさい。

 

心配してくれている仲間にも牙を剥くという最悪のポジション。

 

後半にくると分かるのだが

 

もう、そこにマミさんの存在感はほとんどない。

 

別の時間軸のマミさんも出てくるが、そこでは急にメンヘラ化して仲間を殺すなど、なかなかのめんどくささを出してくる。

 

しかしルックスがよかったのか、マミさんの低評価を聞くことは少ない。

 

あと最終話直前で分かるのだが、どちらかというと主人公は「まどか」ではない。

 

主題歌の「コネクト」の歌詞もどちらかというと、そのキャラの心情である。

 

 

 

もうこの作品がかなり前のこともあり、一度熱が冷めきっていたが

 

数年前に知人に映画版の「叛逆の物語」を見せられた。

 

この時は「もうまどマギはいいよぉ」なんて言ってたが、これが見てみると実に面白い。

 

もちろんキャラ紹介もないので、アニメ本編を観ていたほうがいい。

 

冒頭部分からしばらく「叛逆の物語」にて、わけのわからない皆の仲良しごっこを延々と見せ付けられる。

 

その平和さがまた不気味なのだけど。

 

不気味といえば、シャフトの作るあの魔女の結界の中の画は、何度見ても圧巻である。

 

あれを考えてる人の脳内はいったいどうなっているんだ。

 

「反逆の物語」では、途中からキャラへの印象が変わる。

 

前述したさやかの扱いが非常に優遇されている。

 

その影響もあって個人的な話だが、この映画版のオチで一番好きだったキャラと一番嫌いだったキャラのランキングが入れ替わった。

 

なんだ、さやかカッコイイじゃん。

 

でもあの世界の中でどう生きていくんだろう、という絶望を与えられてしまう。

 

というか、まどかマギカのアニメ本編でも、結構釈然としないまま終わる。

 

戦い自体は終わらないからだ。

 

彼女たちはまた、命を賭して戦い続ける。

 

それは作中の最後で因果律そのものが塗り替えられても変わらないままだった。

 

誰も知ることのない、光もない、日の目を見ない世界で、自分の願いが何でも叶うことと引き換えに強大な力を手にする。

 

しかし、その願いは、同時に人であることを捨てる選択でもあった。

 

その内容の詳しい説明をしないまま、「ボクと契約して魔法少女になってよ」なんて、キュゥべえは一級の詐欺師だ。

 

 

 

個人的には久しぶりに観て、杏子の過去の回想話にて、いくつか惹きつけられる言葉があった。

 

父親が、全く理解されない狂信的な宗教に鞍替えして、周りに罵られ続けたことに対して

 

「オヤジは間違ったことは言ってなかった。ただ、周りと違うことを言ってただけだ。」

 

このセリフが一つ目。

 

世間一般論が正しいとする文化は、昔からある。

 

これが常識だから、とその正義感を出すこと自体は悪ではない。

 

それを押し付けること自体が悪そのもの。

 

というか、そもそも正義ってなんだ?という話になる。

 

正義とは、ひとつしかないものではない。

 

人によって変わる。

 

人それぞれ、価値観も思考も違うのだから。

 

なのに、人はそれを、正義や常識を押し付けたがる。

 

自分と違う人間を排除したがる。

 

この杏子の回想のセリフは、世の中が求めているのは「正しい」ものではなく、「皆と同じかどうか」であることを物語っている。

 

こんな世の中じゃ自由に生きづらいに決まってる。

 

自由に生きることは、普通の人や一般の常識から外れるのだから。

 

だから、学校も会社も強制する。

 

抜きん出た者を排除したり、矯正しようとする。

 

それぞれの個性の芽を摘み取っておいて、大人になったら「個性がないこと」を否定したりする。

 

だからこそ、俺は自由に生きようと思った。

 

 

長くなったけど、次が二つ目。

 

「他人の都合を知りもせず、勝手な願い事をしたせいで、全てを失ってしまった。」

 

自分の中の優しさや、謙虚って何を基準にしているのかと言えば、それはただの「自分の中だけの価値観」である。

 

昔、こんな記事をなんかで読んだことがある。↓

 

 

子供が、買った荷物を「ボクも持ちたい」「ママの役に立ちたい」と言ってきてくれたのが嬉しくて、荷物を持たせて歩いていた。

 

その姿を見ていた人達の中に「重い荷物を持たせて、子供がかわいそう」と聞こえるように言ってきた人がいた。

 

その「かわいそう」という無責任な言葉で、子供の純粋な優しさを奪い取らないで。

 

 

これを読んだときは衝撃を受けた。

 

自分も勝手な優しさを、押し付けてないか。

 

そこにある本質を理解しようとしたか。

 

その無責任な優しさは、時に人を傷つける凶器になる。

 

どんな人だったとしても中途半端に首を突っ込んできておいて、指図だけするような立場ではないはずだ。

 

優しさのつもりで言ってるとか、優しさのつもりでやってることが、人を傷つけることもある。

 

言い出したらキリがないし、その優しさを中断させる権利もない。

 

その人たちの優しさも優しさとして受け取れるようになるのが、一番ではある。

 

でもこの時代、本当にその見極めは難しい。

 

本物がニセモノに見えたりするし、逆もまた然り。

 

だからこそ、何が正しいとかはわかりづらい。

 

だからこそ、こういう気持ちになる人もいるということを理解していなければならない。

 

このアニメの杏子の場合はまた特殊だが、実際に失わないという保証はない。

 

杏子は父親のためを思って、たくさんの人が父のもとに集まるということを願った。

 

願いは叶ったが、父の言ってることが認められたわけではなく、杏子の願いによるものと分かってしまった父は杏子を残して、家族と心中する。

 

それが、ここで話した二つ目の言葉への流れだ。

 

ここで魔法少女として、魔女と戦っている杏子が父に罵られた言葉が「魔女」だったことも、皮肉さの極みという他ない。

 

あれ、ここまで書いて思ったけど、杏子好きかも。

 

とにかく、自分は安全圏にいたり、無関係の立場から見せる中途半端な優しさは人を傷つける。

 

それをもっと理解していきたい。

 

 

生死が関わってくる作品なので、命や常識に関する考えさせられ方は、かなり強い。

 

また観かえしたくなるような作品だった。

 

ありがとう、まどかまぎか。