お疲れ様、平成。よろしく、令和。

「もうこっちの家の方が長くなったんだよ」

 

61歳を過ぎた頃、母がぼんやり言っていた言葉。

 

30歳で今の家…つまり俺の実家に嫁いできた母親が、もともとの母方の家よりもこっちで生活した期間が長くなった、ということだ。

 

平成が終わる瞬間にぼんやりと、この時の言葉を思い出していた。

 

俺は平成という中で30年と少し生きた。

 

生まれたのは昭和だけど、圧倒的に平成の方が長い。

 

これから先、もしも俺の命が30年以上続く時まで、俺は平成の中で生きた年数が長くなる。

 

いつか令和の方が長くなる時がくるのだろうか?そんな未来に思いを馳せる。

 

 

人生は年齢の分母が大きいほど、思い出が薄くなると聞いたことがある。

 

小学校や、中学校の時の思い出が強く残り続けるのは、このためらしい。

 

確かに1(年間)/30(自分の年齢)とした場合、その思い出の小ささが分かると思う。

 

そして、1/15の中学生の時の思い出が、色濃いのも頷ける。

 

俺は、その中を平成で生きた。

 

そして、これから令和の中で命を刻んでいく。

 

 

何を区切りにして、大人になったと言えるのかは今もわからないままだ。

 

子供の頃、親の機嫌で理不尽に怒られた時「大人も子供の延長戦なんだなあ」と思ったことが、自分にも当てはまる。

 

そんな自分で悪くなったことといえば、中途半端に常識にとらわれるようになったことと、中途半端な知識をつけてしまったこと。

 

子供の頃から、なんだかんだのらりくらり生きてこれたせいで、逃げぐせのようなものがこびりついて離れない。

 

子供のように遊び続けることを、社会は理解してくれなかった。

 

だから平成の中で、俺は至って真面目に、社会の求める自分像になろうとしていた。

 

今では反吐が出るほどの思考だが、あの時はそれが正しいと信じて疑わなかったし、みんながそうだから、というだけの理由で自分を押し殺していた。

 

ちょうど去年の今頃、自分の見てきた世界を変えようと思った。

 

 

平成が令和になることに対して、そんなに興味を持っていない。

 

別に元号なんて変わるものだし、天皇の命は永続ではない。

 

ただ、表すものが変わったってだけで、人の道や、人の命は変わらない。

 

しかし今までの自分を変えるというための、ほんの少しのきっかけにはできるのかもしれない。

 

人は自分にできないことを、何かにひっかけて考えたがる。

 

俺だって、そう。

 

でも令和になったからって、新しい自分が待っているとか、新しい自分に生まれ変われるなんてことは、断じてない。

 

いつもいつも先延ばしにしてしまう悪い癖。

 

思ったらやらなければ。

 

それを続けなければ。

 

 

歳を重ねるにつれて、人間関係は希薄になっていく。

 

少し前にこんな記事を書いた。

 

joinchu.hateblo.jp

この映画を観て、青春時代を思い出した。

 

俺の青春はちょうど平成のど真ん中だった。

 

その頃の友人たちとは、今はもうほとんど連絡をとっていない。

 

子供の頃は、永遠に仲良しでいれるなんて思っていた。

 

しかし、価値観や生き方や、現状は変わる。

 

みんな家庭を持ち始めるし、仕事をする。

 

親だって永遠には生きない。

 

自分たちより先に死んでしまう。

 

歳を重ねると、生きていくってだけで大忙しで、自分のことだけでも精一杯だ。

 

言い方は悪くなるかもしれないが、そんな生活の中でふるいにかかって残った友人が価値観の合う友達と言うんだろう。

 

平成が終わる頃、周りにいる仲間は昔と全然違う顔ぶれだった。

 

自分の価値観や生き方が変わったんだと思う。

 

だけど、令和になっても俺は俺のままだ。

 

平成の時と変わらない自分がそこにいるだけ。

 

だからこそ、令和こそは違う自分を目指していく。

 

平成を超えるほどの令和にできるだろうか。

 

これから、年齢の分母も大きくなっていく。

 

それでももっともっと濃くなるようにして生きていきたい。

 

平成は、最高の仲間たちを得た。

 

この平成に負けないくらいに、濃い令和にしていく。

 

していくしかない。