いつもどおりのまま。

まえおき

 

昔から、生きることが苦手だった。

 

だからといって、死ぬことを選ぶ勇気もない。

 

生きることにも、死ぬことにもしくじった、そんな自分。

 

生きにくかった。

 

そう言い訳して生きてきた。

 

なんだかんだ今まで生きてきたのは、希望や明るい未来を夢見てた…とかとは違う。

 

死のう死のうと言いながら、死ぬタイミングや、死ぬ環境を見つけることをしなかった。

 

これだけは言いたいが、俺はもうメンヘラではない。

 

昔のように、他人に「死にたい」と言って、視線を集めたいわけではない。

 

今は少なからず、生きていたい。

 

誰かへの感謝とか、生きれなかった人が生きたかった明日なんて、

”綺麗事”を言うつもりはさらさらない。

 

俺は今、誰のためでもなく、俺のために生きていたい。

 

俺の楽しいのために生きていたい、と胸を張って言える。

 

これが、昔の俺との大きな違い。

 

綺麗事で「自分で望んで死ぬなんて間違ってる」と声高に主張してきた、昔の俺とは違う。

 

その過去も間違ってるとは思わないけど。

 

 

久しぶりに話す、地元の友人には「変わったね」なんて言われる。

 

「変わった」というよりかは、「押し込めていた自分に戻ってきている」と言った方が正しいと言える。

 

大人であろうとすること、常識に縛られること、

世間に従属すること、それらを辞めたということ。

 

もちろん、全てに強くいれるわけではない。

 

今でもソワソワするし、凹むこともある。

 

”自由に生きるなんて幻想か?”なんて思うし、

現状に不満を言ったりもする。

 

どこにでもいる、皮肉屋で、自己肯定感の低いただのおっさん。

 

別にそれでもいい。

そう思えたのが一番強い。

 

俺の人生は俺のもので、他人に量れるものではない。

今まで他人のために生きすぎたのだ。

 

もうそろそろ、解放したい。

 

命は、無限ではない。

 

分かっていながら、それを見て見ぬふり、気づいていないふりをしてる。

 

何度心で思っても、言葉にしても、文字にしても、掴めないこの感覚。

 

きっと、この先ずっと、自分が死んでも掴むことはないんだと思う。

 

 

ほんだい

 

俺は去年の7月くらいにYouTubeを始めた。

 

単純に「怪談朗読ならコンスタントに投稿できそう」とか

「怪談好きだし、ずっとやれそう」みたいな感じだった。

 

今でも、怪談朗読は自分が楽しいからやってるところが大きい。

 

そんなことをやってると、意外にも見てくれてる人は、それなりにいるもので。

 

思ったより、視聴回数が伸びないとか、いい反応がもらえない、なんて二の次で、

スパンが空いても投稿し続けることができるのは、

本当に「楽しい」と思っているんだと、何となく思っている。

 

 

この記事を書いている6時間ほど前。

 

相方から連絡がこないので、一人で怪談朗読を録っていて、休憩がてらTwitterを覗いた。

 

そうするとりっきぃさんのツイートが流れてきてた。

 

 

この記事を見たのが、27日の23時53分。

 

朗読を録っていたこともあり、その気持ちを録音しようとして、

マイクの前で話していたけど、頭が追いついていかなくて、

上手く喋れず、結局ブログに書くことにした。

 

(ちなみに、りっきぃさんは俺が怪談朗読を始めるきっかけになった人の一人。)

 

鏡太郎さんは、俺がYouTube始めたての頃に、結構聴いてた朗読家さんで、

他の人と違う喋り方が特徴的だったから、よく覚えてる。

 

たまたま、何らかの繋がりで、俺のツイートにいいねをいただいたことがあって、

その後に、俺の怪談朗読への思いやら何やらを連続ツイートしたのを全部いいねしてくださってたことがあって。

 

それが嬉しくて。

Twitter上でだけど、鏡太郎さんに挨拶したわけね。

(普段俺からそんなことほとんどしないから、それだけ俺も嬉しかった。)

 

その時もすぐに、そしてすごく丁寧に対応してもらえた。

めっちゃいい人で、自分が鏡太郎さんの朗読を聴いてたことを伝えたら、喜んでくれた。

ほんの少しだけど、交流してもらったのね。

 

そんで、時間が経って、何か体調が悪いみたいな…

 

そんなツイート見て。

 

俺は「あ、マジか。大丈夫かな。」って何となく思ったくらいで。

 

ごまだんごさんと、りっきぃさんと一緒にやってたの聴いてて、

「あー、なんかこういうのいいなー」って思って。

 

ちなみに「怪談朗読やろう!」って思ったのは、

ごまだんごさんと、りっきぃさんの動画を聴いてからなんだけどね。

 

今でもごまだんごさんは全ての人にオススメするし、りっきぃさんもそう。

 

ちなみに、鏡太郎さんもオススメすることが多かったから、

俺の周り数人は覚えてて、今回の訃報で、俺が凹んでるのも気にしてくれてた。

 

りっきぃさんがツイートしてくれてなかったら、俺があのタイミングで見なかったら…

知るのはもっと後だったと思う。

 

それを当日ギリギリに知れたってのは、俺にとっては、まだよかったのかもしれない。

 

俺は勝手ながら、せめて同じ朗読家として、YouTubeに「声」で、

ご冥福を…なんて投稿しようとした。(怪談朗読のラストでね)

 

 

正直、録れなかった、声では。

話してたら、泣けてくるというか、頭が追いついてなくて。

 

別に親友とか、友人とか、親戚とか、そういうのでもないのに。

盲信してたとかでもないのに。

 

普段は喋る内容なんて台本がなくとも、それなりに順序とか内容は組み立てていけるのに、

それができなかった。

 

もっと話したかった。

もっと聞きたかった。

 

今になって悔やんでも、遅すぎる。

後悔先に立たずとはよく言ったもので、いつも後悔しかない。

 

どうして、あの人なんだろう、

どうして、あの人だったんだろう。

 

そんなもの、運命なんかで割り切れるわけないよな。

 

 

それでも、いつもどおり、時間が過ぎていく。

そして、今、現在は過去になる。

 

それが悲しい。

俺は、まだ受け入れれない。

 

鏡太郎さんがいる「今」がただ頭の中にあって、

いない、なんて逆に信じられない。

 

もう本当にツイートとかないの?

それがすごく辛いんだけど。

実感したくないんだけど。

 

 

俺自身、大きいことは言えないし、

バトンを貰ったとかもないけど、

何となく、俺はまだまだ終わるわけにはいかないな、って。

 

少し、胸が苦しくて、モヤモヤしてるけど、

綺麗事かも知れないけど、

鏡太郎さんのところまで届くくらい、すごい奴になりたい。

 

ただ、本当にそれだけの話。

俺の勝手なエゴな記事。

 

とにかく、とにかく。

鏡太郎さん、ご冥福を心よりお祈りします。

あなたにいただけた光、忘れません。

これは絶対忘れません。

 

皆の中で、鏡太郎さんは生き続ける。

 

 

知らない人は、ぜひ鏡太郎さんの朗読聴いてみて。

鏡太郎さんのチャンネル見てみて。

マジでいい朗読されてます。

味がありすぎる。

↓ 

www.youtube.com