アニメ・漫画「ぼくらの」に学ぶ人間論②〜ダイチ編〜(ネタバレあり)
さて、前回に引き続き書いていこう。
今回はダイチ編。
そもそもこの回を観たことにより、このアニメにハマることになる。
特に「ぼくらの」というアニメは一話目、二話目まで面白くない。
ただの謎のロボットアニメすぎる。
しかもロボットアニメにもなりきれない。
たまたまこのアニメの放送の時にテレビをつけてなかったら一生観ることはなかったかもしれない。
声優は一発で分かる。
ただ、キャラはまったくもってイケメンではないし、むしろ中学生という設定に違和感があるくらいに渋すぎる。
そもそも戦闘時に座るのが椅子じゃなくて座布団とか。
周りのキャラにも少し引かれる。
作中での彼の立ち回りは、すごくシンプルで「兄弟愛」である。
親父さんが失踪しているので、兄弟だけで暮らしている。
そして、親父さんの弟の叔父さんがとてもいい役回りを引き受けている。
この回であまりにも皮肉なのが、兄弟と約束した遊園地に行く日の前日に敵が現れてしまうこと。
つまりこの時点で、敵が待ってでもくれない限り、遊園地にはいけないし、その状態では遊園地は開園しない。
彼はどう足掻いても、兄弟とは遊園地に行けない運命にあったということにほかならない。
ダイチ自身がかなりの人格者なので、前回のコダマのような思考ではなく、近場に人間がいないところで戦おうとするが、これがまた裏目に出てくる。
その避難が終わった区域が、遊園地のあるエリアだった。
それを丸ごとぺしゃんこにしようとする敵。
敵も並行世界の人間なので、戦闘の開始を待ってくれるやつもいれば、待たずに攻撃をしかけてくるやつもいる。
自分の世界の全ての命、地球を背負っているのを知ってるのかもしれないし、知らないのかもしれない。
ただ殺し合いに乗るしかないのがこの作品の残酷さである。
結果、ダイチは戦闘には勝つわけだが、ご都合主義で生きてて遊園地に行ける…なんて甘いアニメじゃない。
一番年上の妹が兄の代わりに弟たちを遊園地に連れていくが、弟たちはダイチが来ないことに憤慨する。
兄が、その遊園地を守って死んでいったということを知ることはない。(アニメ最終回でその話を聞かされてる描写はある。)
残される人の想いがあまりにもダイレクトに伝わってくる回である。
しかも、彼らが戦っているということを誰も知らない。
地球は守られているが、彼らをヒーローと崇める人はいないのだ。
その中で自分だけが死ななければならないとは、いくらなんでもえげつなさすぎる。
そういえば、アニメ版と原作ではパイロットに選ばれる順番が違う。
二人目のコダマまでは同じだが、コダマの死の直後に「操縦したら死ぬ」ということを主人公たちは知ることになる。
原作は三人目にダイチが選ばれるので、その場合の精神状態はえげつない。
次のこの関連の記事で書く事になるアニメ版三人目のパイロット、カコは本当に目も当てられない。
今考えてみると、アニメと原作のチズを渦巻く界隈と、順序がきっかり逆になってるわけだけど、ダイチをそれくらい残したかったのかな。
自分の運命を受け入れて他人たちのために死ななきゃいけないなんて、できることなのだろうか。
まあ戦わなくても結局自分も死んじゃうんだけど。
正直言って中学生が抱えれる問題じゃない。
たまに寝てる時に見る夢で、世界が終わるみたいな夢を見たとき、怖すぎて目覚める時がある。
その恐怖は「死んでしまうこと」というよりかは「この先に自分の歴史がない」ということのように感じる。
もう何もない、自分が誰かと笑うこともできず、何もできない。
それが怖い。
生まれ変わりがあったとしても、もう記憶なんてない。
生死に関しては、生きているだけじゃ計れない。
でも死は個人的な意味で永遠の終わりを告げる。
誰もヒーローと思ってくれない、思ってくれたとしても、もう自分はそこにはいない。
そこに存在してもいない。
それが本当の恐怖。
現実媒体じゃないものが増えすぎる。
昔より過激なゲームや、映像も増えたし、それを簡単に観ることが可能になった。
それ自体を悪いこととは思わないが、受け取り手次第によっては狂気にもなる。
つまり言うなれば、クリックやタップ一つで人を殺せるような時代だ。
現代社会は、命に対しての境目が曖昧になってきているのを感じる。
だからこそ、自分が手にする銃の引き金を引くときは、十分に気をつけなきゃいけない。
「ぼくらの」の時代設定は少し未来の話だが、アニメ化自体は2007年。
作中に登場するケータイも、ガラケーだ。
だが作者が、上で書いたような「命に対しての境目が曖昧になってきた」という世界をずっと昔に描いていると考えると、とても恐ろしい。
遊園地を守っても、自分はそこには行けない。
世界を守っても、誰からも感謝されない。
その世界で、自分は同じ選択をできるとは到底思えない。
結局は孤独の世界で、人間は孤独に死んでいくしかないということなのかもしれない。
その時に守る理由があるのなら、きっと人は孤独ではない。
ダイチは、死んで消えてしまったとしても、兄弟や、兄弟のいる未来を守れたのだから。
人生を変えた本
去年の今頃はまだ完全なる社畜という生き方をしていた。
というのも、お金を稼ぐ手段なんて企業に属するしか知らなかったからだ。
その時の働き先で、仕事場の先輩に「起業をしないか?」と誘われたことが発端。
その言葉で今まで考えていた生き方に少しの亀裂が入った。
「え?そういうのって、才能とかコネとかお金とかないといけないんじゃないの?」
という不安と、
「もしかしたらそんなのがなくてもできるのかな?」
という期待が完全に混合していた。
田舎で生活をしていると、どうしても「常識」みたいなものを尊重する生き方を選択せざるを得ない。
周りがそれで生活をしていて、生きていくのを強制的に見せられてしまうから、そういう生き方しかできないんだと、小さい頃から思わされる。
家族にもそういう生き方を強いられる。
そしたら「いい学校に入って、いい会社に入って、平日は働いて、休日に好きなことをする」という…まさに敷かれたレールの上を歩くだけの生き方になる。
その生き方が楽しくて、安定していて、不安に怯えたくないというのなら、その生き方に何も異論はない。
だけど、この世の中にはそれが嫌だったり、そういう常識の範疇の人と共存できない人がいる。
俺なんてまさにその典型的な例の人間。
常識的な生き方を親にずっと言われてきたが、今の時代にその常識はどこまでが正しいのかなんて疑いもしないのは、ただの思考停止だ。
タイトルの話に戻すと、何か頭の中で「起業と言えば堀江貴文」みたいなところがあった。
理由はわからないが、何となくライブドアだって大きな会社だったし、あんな金持ちになりたい、みたいなそんな単純な思考だった。
捕まってからはよく何をしてるのか分からないな、と思っていたくらい彼に関しては知らなかった。
とは言え、ビジネス本なんて読んでもわからないから、とりあえず彼の生き方を最初に読んでみようと思った。
それが堀江貴文の「本音で生きる」という本。
ビジネスとかはほとんど関係なく、メンタルを作るためのものだが、たまたま手にとったこの本が自分の人生を大きく変えることなった。
これからの時代に、というか、今までの自分にとって新しいことだらけだった。
俺は自分の時間を生きていなかった。
人の顔色を伺っていただけ。
それで、誰にも嫌われないように無難な生き方を選択してきただけだった。
なんて、つまらない生き方をしてきたんだろうと思った。
誰にも嫌われないやつが、誰かに好かれることがないと実感した瞬間だった。
どちらかと言うと、堀江貴文の書く本はビジネスというよりマインドのほうが多いように思う。
そして逆に大事なのは、そういうところ。
彼の言ってることは、これから先を生き抜いていくためのシンプルな術だ。
俺は生き方が自由になることを、そして、これからの時代が今までのように進んでいくわけではないことを何となく頭の中で描いていた。
もっと自由に生きる、それを願い、そのために強く生きようという覚悟ができたのは、この本に出会えてからだと思う。
堀江貴文はこの本のことを「自分にとっては当たり前のことすぎて退屈だった」と語っている。
しかし受け取り手によって、その世界は見え方を変える。
俺には、彼にとって退屈なその本が、何よりも光り輝いて見えた。
俺ももっともっと未来を見ていきたい。
結局、先輩に誘われた起業計画は、停滞した。
自分の中でやりたいことが変わったからだ。
起業とは、起業とは結局どこかで何かに縛られる。
その生き方は大きい視野で見ると、自分が自由に生きることとはかけ離れている。
少なくとも今はそうだ。
もっともっとすごいやつになりたい。
夢は漠然としているけど、もっと形にしていきたい。
アニメ・漫画「ぼくらの」に学ぶ人間論①〜コダマ編〜(ネタバレあり)
ここ最近あって、久しぶりに大好きなアニメの一つである「ぼくらの」を1話目から観てみた。
2クールあったので、24話。
昔、このアニメにハマって原作の漫画も集めたくらいだ。
最初に観たのは10年ほど前。
たまたま夜中にやっていて、背景の絵が綺麗だなーと思って見入ってしまってから。
それはダイチ編で、声優が杉田智和だったこともあり、テンションが上がった。
終わってから気になって調べてみると、一度の戦闘ごとにパイロットは死ぬというヘビーな内容。
鬱エンドとかそういうのが大好きな陰湿な俺は、その設定だけで惹きつけられた。
DVDをレンタルして、一話目から観た。
最初の感想は、声優が豪華すぎるという声豚的なものだった。
今回見返してみて知ったが、浅沼晋太郎も出てて驚いた。
このアニメはロボットを媒体にしているが、完全に人間ドラマだ。
そもそものテーマが重い。
ロボットに乗って、戦いの後に死ぬ運命をどう受け入れていくのか。
それが課されるのは中学生。
しかも地球の運命だとか、政治的なものにも巻き込まれる。
親との確執だったり、いじめへの葛藤だったり、滾る性欲だったり。
人間模様があまりにも重すぎる。
作者絶対病んでる。
途中まで分からないが、戦ってる相手もまた、同じ人間。
戦わないことを選択しても、互の平行線軸の宇宙が消えるという。
人の命を奪って、こちらの地球を守り、自分だけ死ぬか。
負けて、こちらの地球もろとも死ぬか、の選択しか与えられない。
ヘビーすぎる。
とりあえず今は「ぼくらの」への愛が強すぎるので、特筆すべきキャラを書き出してみようと思う。
ちなみにアニメ版は、原作の途中で始まったので、途中から完全にオリジナルストーリーだ。
最初に書くのは、コダマ。
声優が保志くんなところもあり、好き。
それだけじゃなくて、中二病の完全なる発症者で、発言や行動なんかもいちいち中二病。
このキャラがあまりにも中学生の時の俺にかぶりすぎてて好き。
普通に考えたら、いじめられたり、嫌われたりするような性格してる。
まっとうな考え方をしてる兄貴達からはよく怒られてるが、世間的に見て悪者の親父を尊敬してるところはきちんと現実主義。
若い時の俺の思考なら完全に正義感を振りかざして、この考え方は間違ってる!とか言ってたかもしれないが、至って人間の強弱についてしっかりとらえているキャラだ。
実際に正義感や、正しいことだけで飯は食っていけない。
綺麗事をほざく前に、生きることを選択し、そのために効率のいい方法を探しているだけなのだ。
たしかにそこが人道的なものだったり、モラルの観点から見るとずれることはあると思うが、あくまで正解をひとつに絞ってはいけないと思う。
結局のところ、コダマ編で描きたかったのは「この地球上では強者が弱者を食い物にしている事実があるということ」のように感じた。
そして上記のそれに関して「悪いこと」とか「いいこと」という概念を介入させずに、だ。
むしろ食物連鎖という観点から見ると、悪いことは何らないはずだ。
最初の1話目(いわゆるキャラ紹介の側面が強い)で彼は、カニを花火で焼き殺している。
女子陣には総スカンをくらい、まっとうな男子陣には少し呆れられたりしている。
もちろん男子の中には同調するやつもいるわけだが、こいつの場合はいじめすらも外野からただ見てるだけの中途半端なやつである。
コダマの場合は「どうせ死にそう(そんな運命)だったから、やっても大丈夫」と開き直っている。
彼は悪口を言われても、彼なりの意見を突き通すわけだ。
そして、そのカニと同じようにロボットでの戦い時に、民間人を躊躇いもなく踏み潰す。
何人だったかは覚えてないが、一億人が助かるなら、目の前の1000人くらい死んだってどうってことないというえげつない開き直りっぷり。
逆を言うと、ここまで開き直れるのだからメンタルは相当強いはず。
死んでしまう人間を「そいつはそこで死ぬ運命だったんだから仕方ない」と切り捨てる。
本質的に人間の中には、自分に無関係な人間はどうでもいい、という心理があるはずだ。
それは言葉にすると冷たく感じられるが、おそらく戦争においては完全に有利に働くし、一番現実を見ている。
しかしその直後、自分の大好きな親父さんを自分のミスで殺してしまって、完全に動揺してる。
でも、そこも可愛い。
本人の言う言葉を使えば、親父さんも「そこで死ぬ運命だった」というところが皮肉にほかならない。
自分の大事な人が死んだら取り乱すところは、あまりにも愚かと言える。
自分が踏み潰した人たちにも大事な人はいたし、誰かにとって大事な人はいたはずなのだから。
彼はおそらく、そこを履き違えているというか、中学生ながらの中二病を発揮しすぎたのだった。
誰かを守る、ということの意味を知らないままだったのだ。
コダマの場合、二人目で死んでしまうキャラなので、自分が死ぬということを知らない。
彼がもし後回しで、そこに向き合った時、どんな答えを出したかみてみたい。
小説版では死ぬ順番も登場キャラも違うため、人間的に成長するコダマが見れるらしい。
この熱のあるうちに読んでみたいところだ。
アニメは、まだ原作に準じているところなので、原作の漫画版とはほとんど変わらない。
昔、バンドをしていたときに、このコダマから名前をとってつけたことがあった。
自分にとってもすごく特別なキャラであることを思い出せた。
今回はここまで。
人に嫌われることを恐れない
最近、とある相談を受けた。
仕事でお客さんに言われた言葉で傷ついた、という相談だ。
ネイルという技術職で「下手ですね」と言われたことが悔しかったらしい。
専門の資格も一番上のを持っているくらいすごい人なのだが、悪口に対する耐性がなさすぎる。
もちろんそんなことは当たり前で、普通に生きてるなら悪口なんて言われることはそんなにないし、言われて嬉しいと思う人は稀だろう。
つまるところ結局は、プライドのせいで傷ついているとも言える。
これはコンプレックスという言葉にも置き換えることができる。
例えるとするなら「太っている」という悪口は、その人が気にしていないと生じないものだ。
ガリガリの人が、あてつけではなく本当の意味で「デブ」と言われても、違うのだから気にはならない。
自分が気にするところで、その特定の言葉を言われるという状況下において、初めて悪口として機能するわけだ。
今回のことに関しても、余計なプライドがあるせいでいちいち傷ついてしまう。
もちろん、その人が努力を怠ったりしたのもあるとは思う。
だが、たまにくる悪口を受け止めすぎて、押しつぶされてしまうのは本末転倒だ。
相手にとっては悪意がない場合もある。
ネガティブな人と、ポジティブな人では、手に持っている花に向けて「綺麗ですね」と言ったとき、全然違う捉え方をする。
「私が綺麗じゃないからそんなこと言うんだ」と勝手に傷つく。
この場合もちろん相手に悪意はないのに、だ。
人間、捉え方次第で、どれだけでも嬉しくなれるし、どれだけでも落ち込める。
だから、自分が受け取る言葉は自分の中で、丁寧にポジティブに受け取ったほうがいい。
そういえば、俺は結構こういう相談を受けることが多いんだけど、よく言われるのが
「人に嫌われるのが怖くないんですか?」とか「人のことなんとも思わないの?」とかそんな感じだ。
確かに淡白といえば淡白なんだろうけど、もちろん人に嫌われたくて生きてるわけじゃないし、嫌われるのは嫌だし、怖い。
それを誤魔化せるようになったというだけ。
一年くらい前までは、誰かに嫌われることをとにかく恐れていたし、自分の意見なんてのもほとんど言えなかった。
自分がないし、自分のことも言えない。
自由に生きるということの意味が分からなかった。
でも「嫌われること」をそんなに怖がることではない、ということはわかった。
昔から、誰にも嫌われたくなくて、無難に生きていた。
だから自分の意見も言えなかったし、嫌われないようにするために生きてきた。
でも人間、そんなのは無理がある。
全ての人に好かれることなんて、本当に無理だ。
人間にはイレギュラー要素がある。
「皆に好かれてる人が嫌い」という人は一定数はいるから、絶対に全ての人に好かれるのは絶対的に不可能なのだ。
だからこういった相談にも、嫌われないように生きるのだけはやめよう、と伝える。
もっと上手くなります、と返事があったが、そこにも注意はしておいた。
その人のため、これからお店に来る人のために上手くなるのはいい。
最高の選択だ。
しかし「嫌われないように上手くなる」のは最低の選択だと思う。
自分がやりたいことは履き違えてはならない。
自分が、その道のプロになると決めた時から、すでに批判とは隣り合わせにある。
その批判を消すために上手くなるのでは、何を求めているのかちゃんちゃら分からない。
自分の「嫌われたくない」という承認欲求のために、技術を求めるのは不誠実にほかならない。
相手は批判だったのかも、本当に突き詰めてみないと分からない。
とにかく今の自分を知る機会としてはうってつけだったんじゃないか、ということを話した。
自分の軽く発した一言が誰かの自身をそぎ落とすことなんて、多々ある話だ。
だから自分の発言も気をつけて行っていかなければならない。
だが、そこで臆病になって何もできないというんなら、その夢はそこまでの夢だ。
自分と、自分の夢とか、やりたいことに対して誠実に生きようと思ったら、正直なところ人に嫌われることなんて、何も怖くないし、痛くも痒くもない。
人に嫌われるのが怖い時は、そこをしっかりと見据えていこう。
一度、立ち止まってみるのも大事だ。
俺も自分自身、これからしっかり生きていくために、自分を見返す機会としてとてもよかったと思える相談だった。
30歳を過ぎたおっさんがプリキュアの映画を見てきた話。(ネタバレ注意)
先日、とある友人に誘われてプリキュアの映画を観てきた。
そもそもなんでプリキュア?と思われそうだが、その友人がいい歳してプリキュアが好きというし、
友人はひとりで行くのはさすがに恥ずかしいということで、挑戦したことのないことに挑戦してみようと思ったわけだ。
ちなみに友人と書いたから同い年くらいと錯覚されそうだが、その友人は20代半ばか、前半くらいだ。
先輩後輩という間柄ではない。
男2人でとはいえ、片方が俺みたいなおっさんだと気は引けないだろうか。
そもそも他に誘うやつはいなかったのか。
でもどうしても行きたいらしく、チケット代は払うというのでついていってやった。
そのために彼は1800円を損失したのだが、本人はひとりではないという安心感からか、大喜びだった。
お金の価値は、感情やその状況で左右されるものだなあ、、なんて呑気に考えていた。
例えるなら、砂漠で一人ぼっち、周りには飲み物もない、そういう店もないという時にお金に価値は生まれない。
水を飲まないと死ぬ直前なら、500mlの水でさえ数万円の価値が付くだろう。
俺は、砂漠にいる友人の水になったということだ。
いざ、映画館の前までは「え?全然平気。俺そういうの何も気にしないでいれるよ。」と言った俺だったが、
そのシアタールームに入ってから、少し毛色が変わった。
子供と、家族しか来ない。
公開されてそんなに経ってなかったのもあるが、幼女や家族に囲まれる男ふたり。
少し安心できたのは、ひとりで来ている若い男性客も2人ほど見つけたからだ。
最後にプリキュアを見たのは、高校生くらいのとき。
初代だ。
マックスハートも一話だけしか観てない。
ひとつだけ言うのであれば、フレッシュプリキュア!の山吹 祈里というキャラに関しては、アニメ史上トップクラスに好みのキャラだ。
安かったとはいえ、今だにフィギュアも持っている。←
あれは普通に可愛い。
プリキュアの恋愛シミュレーションゲームが出たら、真っ先に攻略したい。
スプラッシュスターの舞ちゃんも好きだし、プリキュア5のかれんちゃんと、こまちちゃんも好き。
最近ははぐっとプリキュアの、ほまれちゃんも好き。
とりあえずはこの5強。
てか、ほまれちゃんの声優、小倉唯やったんか…知らなかった。
話を戻すと、異色の客が混じり込む中、上映は始まった。
詳しく聞くと、夢のオールスター作品らしい。
俺は仮面ライダーも好きだから、「プリキュアってまさに女の子版の仮面ライダーだよね」と言った瞬間、CMが終わりシーンとなって恥ずかしかった。
普段は、ストーリーありきのアニメや、映画を観ているのもあって、ストーリーありきに慣れているけど、プリキュアの映画はさすがに初めてだ。
どんな感動が待ち構えているのだろう。
…と思った矢先、開始10分くらいで、戦闘に突入する。
確かに登場人物の数の都合で言えば、戦闘は早めに始めないと物語が追いつかないのは事実だろう。
しかし、俺はプリキュアを全く知らないのだ。
助け舟を出してほしくて、隣の知人を見た。
友人はこんな顔をして画面に見入っていた。
さすがに邪魔するのは悪い。
どうにかして必死に思考を追いつかせる。
そうするのも束の間。
新たなキャラが2シリーズ分登場してきた。
もうさすがにパンク寸前である。
冒頭らへんで出てきた黒い鳥の奴の声優が梶くん(梶裕貴)だったことを考えながら、
「早く駆逐してくれねーかな」なんて思っていた。
正直な話、最後まで物語らしい物語はなかった。
いや、もちろん本筋みたいのはあったけども。
大人が観てもストーリー的には全然面白さは感じない。
あくまでこの映画を観て思ったのは、完全にエンターテインメントだということ。
まず、この映画がオールスターものということが一番にある。
おそらく声優さんのスケジュールの都合や、他にもギャラの問題とかもあるかもしれないが、初代から現在までのプリキュアは少しずつでも登場する。
しかも声を発するキャラもそれなりにいるわけだ。
全員分声優を出すのはさすがにしんどいはず。
でも正直な事を言うと、昔のプリキュアの声優さんなんて覚えてる人いないだろうし、覚えてても基本的に子供向けのものなのだから、子供が来ることが多いはずだ。
声優の卵みたいな人たちを集めればいくらでも機転は効かせられたんじゃないか、とも思う。
とはいえ、やはりキャラのボリュームは圧巻で、初代のプリキュアが喋ることに関してはそういう層も狙ったのかもしれない。
特に俺ら世代は子供がいても全然おかしくないし、そういうところで楽しめる人もいるのかもしれない。
そして子供たちにはシアタールームに入るときに、何か光るステッキみたいなのが渡されていた。
プリキュアがピンチになったとき、観客の子供たちがそれを振ってプリキュアを応援すするというシステムらしい。
もちろん俺らは貰えなかったが、何となく思い出のためにくれてもいいのに、とか思っていた。
それはおいといて。
子供たちが、プリキュアと一緒に敵と戦えるという、いわば「体感型」の映画。
これは大人になるにつれて、映画は大人しく観るものという概念が出来上がった俺には、とてもいい刺激になった。
今では応援上映なんてのがあるが、あれも体感型だ。
ある意味、層や時代によっては、そのほうがウケるのである。
とりあえず声豚である俺は、梶くんの声がイケボ過ぎてどうにかなりそうだった。
子供たちも、これから大人になるにつれていろんな知識や概念が増えていく。
それは楽しいことでもあり、子供の頃に持っていたものをその都度、失っていくということでもあるのだろう。
子供の頃は誰しもが、ヒーローに憧れる。
でも大人になるにつれて、ヒーローになんてなれないことを知っていく。
だけど、そこは自分次第でしかないわけだ。
戦い方は違うが、この世にヒーローは実際にいる。
自分が誰かのヒーローになれるのなら、それほど嬉しいことはない。
そういうことを考えさせられた素敵な映画だった。
まあ、もう行かないけど。
好きなことで生きていく。
今、この動画を観てきた。
もともとレペゼン地球の信者、もといレペ狂の俺からしたら、最初にこの動画が公開された時に
は?なにパクってんの?
みたいな感じだった。
ヒカルの動画自体は、まだレペゼン地球が売れる前から観てたし、特に好きとか嫌いとかそういう感情とかもなかった。
たまたまレペゼン地球を好きになって、観てたらこういう動画を投稿してきて、丸パクリのような感じで好きになれなかった。
でもレペゼン地球とコラボしてる動画は結構面白くて、特に銀太推しではない俺ですら
この動画は普通に面白かった。
話を戻すと、結局この動画でヒカルが言ってることに関しては、レペゼン地球のDJ社長が
この動画で話していることの集約版みたいなもの。
やっぱりヒカルの話し方が頭が良くて、説明とか分かりやすい反面、
DJ社長の場合は自伝が入っているので、人間味が湧くというか。
大きくわけるとその違い。
DJ社長の場合、失敗談を赤裸々に話してるところが好感度が上がる要因にもなってるんだけど、
ヒカルが言ってるのは、実に簡単に成功法則の秘訣を話してくれるもの。
簡単に話してるうえに、簡単なこととはいえ、凡人には行動に移しにくいことがわかりやすい。
まあそこに関してはDJ社長もそうなんだけど、あの人のは規模がでかすぎてイメージがわきにくい。
でもどっちの動画も素晴らしく、今まで見てなかったのが勿体無いくらいの内容だった。
DJ社長の言う「自転車の話」と、ヒカルのいう「時流を読む話」は少し似てて、努力の方向性を間違っている場合は、それは何の努力にもならないということ。
ヒカルの方はそれが具体的、DJ社長は本質といったところ。
島田紳助が話してた努力の成功法則にもう一個あるって言って付け加えてたけど、島田紳助は頭がいいからそこまでしか言わなかったんだと思う。
逆を言うと、それでわかるやろ?という怠慢があったからこそ、今の時代にヒカルがこういうことを言ってくれたのは分かりやすくていい。
特に、日本人だから、挑戦できる権利は皆が持ってるみたいなところは胸を打たれた。
こんなにいい環境にいて、成功できなかったらそれは自分のせいだし、それは自分の責任として受け止めなければならない。
つまりは言い訳して、時代のせいとか、周りのせいにすんなよって話。
動画自体似てると思ってたし、実際に内容は似てるんだけど、言いたいことの根っこが別のところに向かうというか。
両方観たら、土台を作れると思う。
大事なのは、その後何をするか。
熱が上がったタイミングで何もしないから、熱が落ち着いてくるって、すごく分かりやすかった。
これから、自分のためにもやることはやらなきゃいけない、そう思わせてくれた動画だった。
魔法少女まどかまぎかに学ぶ自由に生きる論(ネタバレ注意)
たまにアニメを見返したりしてるんだけど、今観たらどんな気持ちになるのだろうと、振り返る意味も込めて「魔法少女まどか☆マギカ」を見返してみた。
このアニメとの出会いからはもう随分経つ。
当時、世間を賑わせたまどマギブームに乗っかったわけではない。
何となく「ひだまりスケッチ」の曲、「芽生えドライブ」が好きだったからだ。
それだけでは観ないようなものだが、当時はアニメにとにかく飢えていた時だった気がする。
1話、2話と普通のアニメより、よく分からない展開が続く。
そもそもいい歳頃の成人男性が「魔法少女」だなんてものを喜んでみている姿は、とんでもなくヤバイ。
ところが、このアニメは3話目にして、急展開を迎える。
導き役として、先輩として、エロ要員として、存在していたキャラが突然の首チョンパ。
それから首チョンパされることを、マミられるという風潮ができたのはこのキャラの名前に起因する。
タイトルとのギャップに言葉を失う人も多かったはずだ。
しかも、今までのほほんとしていた内容にも関わらずここらへんから、毛色が変わり…
魔法少女でも結局、蘇生は行えない。
どこにも魔法なんてないような、「死」との隣り合わせをヒロイン達に焼き付ける。
そもそもタイトルが「まどか☆マギカ」なのにも関わらず、この世界軸のまどかは最終話でしか魔法少女にはならない。
あ、そうそう。
世界軸という概念がとても好き。
平行世界とか、パラレルワールドとか、タイムパラドックスとか。
このアニメも後半から畳み掛けるように、時間軸の逆行、時間遡行が浮き彫りになる。
ここらへんからがまさに話の本筋なのだけども、それがいかんせん後半過ぎて、少し退屈になる部分はある。
それを回避するために味方の絶望→敵キャラへの変貌なんかが織り交ぜられている。
最初から主人公の親友ポジションにいる、さやかは不遇のキャラで、人気もとても少ない。
それはなぜかというと、圧倒的にウザいのがわかるからだ。
本人の境遇もすごく切ないものだし、素直じゃなくても自責の念を持っているところは、俺としては愛着を感じた。
しかし、人気がないのもどこか頷ける。
登場当初は、いきなり殺そうとしてきたキャラが、蓋を開けてみるといいやつだったというギャップとか。
もっとえげつない輪廻の中で、悲しみを生き抜いてきたキャラにはパンチが足りない。
しかも、完全にメンヘラである。
発言や、行動すべてがめんどくさい。
心配してくれている仲間にも牙を剥くという最悪のポジション。
後半にくると分かるのだが
もう、そこにマミさんの存在感はほとんどない。
別の時間軸のマミさんも出てくるが、そこでは急にメンヘラ化して仲間を殺すなど、なかなかのめんどくささを出してくる。
しかしルックスがよかったのか、マミさんの低評価を聞くことは少ない。
あと最終話直前で分かるのだが、どちらかというと主人公は「まどか」ではない。
主題歌の「コネクト」の歌詞もどちらかというと、そのキャラの心情である。
もうこの作品がかなり前のこともあり、一度熱が冷めきっていたが
数年前に知人に映画版の「叛逆の物語」を見せられた。
この時は「もうまどマギはいいよぉ」なんて言ってたが、これが見てみると実に面白い。
もちろんキャラ紹介もないので、アニメ本編を観ていたほうがいい。
冒頭部分からしばらく「叛逆の物語」にて、わけのわからない皆の仲良しごっこを延々と見せ付けられる。
その平和さがまた不気味なのだけど。
不気味といえば、シャフトの作るあの魔女の結界の中の画は、何度見ても圧巻である。
あれを考えてる人の脳内はいったいどうなっているんだ。
「反逆の物語」では、途中からキャラへの印象が変わる。
前述したさやかの扱いが非常に優遇されている。
その影響もあって個人的な話だが、この映画版のオチで一番好きだったキャラと一番嫌いだったキャラのランキングが入れ替わった。
なんだ、さやかカッコイイじゃん。
でもあの世界の中でどう生きていくんだろう、という絶望を与えられてしまう。
というか、まどかマギカのアニメ本編でも、結構釈然としないまま終わる。
戦い自体は終わらないからだ。
彼女たちはまた、命を賭して戦い続ける。
それは作中の最後で因果律そのものが塗り替えられても変わらないままだった。
誰も知ることのない、光もない、日の目を見ない世界で、自分の願いが何でも叶うことと引き換えに強大な力を手にする。
しかし、その願いは、同時に人であることを捨てる選択でもあった。
その内容の詳しい説明をしないまま、「ボクと契約して魔法少女になってよ」なんて、キュゥべえは一級の詐欺師だ。
個人的には久しぶりに観て、杏子の過去の回想話にて、いくつか惹きつけられる言葉があった。
父親が、全く理解されない狂信的な宗教に鞍替えして、周りに罵られ続けたことに対して
「オヤジは間違ったことは言ってなかった。ただ、周りと違うことを言ってただけだ。」
このセリフが一つ目。
世間一般論が正しいとする文化は、昔からある。
これが常識だから、とその正義感を出すこと自体は悪ではない。
それを押し付けること自体が悪そのもの。
というか、そもそも正義ってなんだ?という話になる。
正義とは、ひとつしかないものではない。
人によって変わる。
人それぞれ、価値観も思考も違うのだから。
なのに、人はそれを、正義や常識を押し付けたがる。
自分と違う人間を排除したがる。
この杏子の回想のセリフは、世の中が求めているのは「正しい」ものではなく、「皆と同じかどうか」であることを物語っている。
こんな世の中じゃ自由に生きづらいに決まってる。
自由に生きることは、普通の人や一般の常識から外れるのだから。
だから、学校も会社も強制する。
抜きん出た者を排除したり、矯正しようとする。
それぞれの個性の芽を摘み取っておいて、大人になったら「個性がないこと」を否定したりする。
だからこそ、俺は自由に生きようと思った。
長くなったけど、次が二つ目。
「他人の都合を知りもせず、勝手な願い事をしたせいで、全てを失ってしまった。」
自分の中の優しさや、謙虚って何を基準にしているのかと言えば、それはただの「自分の中だけの価値観」である。
昔、こんな記事をなんかで読んだことがある。↓
子供が、買った荷物を「ボクも持ちたい」「ママの役に立ちたい」と言ってきてくれたのが嬉しくて、荷物を持たせて歩いていた。
その姿を見ていた人達の中に「重い荷物を持たせて、子供がかわいそう」と聞こえるように言ってきた人がいた。
その「かわいそう」という無責任な言葉で、子供の純粋な優しさを奪い取らないで。
これを読んだときは衝撃を受けた。
自分も勝手な優しさを、押し付けてないか。
そこにある本質を理解しようとしたか。
その無責任な優しさは、時に人を傷つける凶器になる。
どんな人だったとしても中途半端に首を突っ込んできておいて、指図だけするような立場ではないはずだ。
優しさのつもりで言ってるとか、優しさのつもりでやってることが、人を傷つけることもある。
言い出したらキリがないし、その優しさを中断させる権利もない。
その人たちの優しさも優しさとして受け取れるようになるのが、一番ではある。
でもこの時代、本当にその見極めは難しい。
本物がニセモノに見えたりするし、逆もまた然り。
だからこそ、何が正しいとかはわかりづらい。
だからこそ、こういう気持ちになる人もいるということを理解していなければならない。
このアニメの杏子の場合はまた特殊だが、実際に失わないという保証はない。
杏子は父親のためを思って、たくさんの人が父のもとに集まるということを願った。
願いは叶ったが、父の言ってることが認められたわけではなく、杏子の願いによるものと分かってしまった父は杏子を残して、家族と心中する。
それが、ここで話した二つ目の言葉への流れだ。
ここで魔法少女として、魔女と戦っている杏子が父に罵られた言葉が「魔女」だったことも、皮肉さの極みという他ない。
あれ、ここまで書いて思ったけど、杏子好きかも。
とにかく、自分は安全圏にいたり、無関係の立場から見せる中途半端な優しさは人を傷つける。
それをもっと理解していきたい。
生死が関わってくる作品なので、命や常識に関する考えさせられ方は、かなり強い。
また観かえしたくなるような作品だった。
ありがとう、まどかまぎか。