アニメ・漫画「ぼくらの」に学ぶ人間論②〜ダイチ編〜(ネタバレあり)

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さて、前回に引き続き書いていこう。

 

今回はダイチ編。

 

そもそもこの回を観たことにより、このアニメにハマることになる。

 

特に「ぼくらの」というアニメは一話目、二話目まで面白くない。

 

ただの謎のロボットアニメすぎる。

 

しかもロボットアニメにもなりきれない。

 

たまたまこのアニメの放送の時にテレビをつけてなかったら一生観ることはなかったかもしれない。

 

 

声優は一発で分かる。

 

杉田智和。(一番下の妹の声は、まさかの釘宮理恵。)

 

銀魂ハルヒでお馴染みのあの人だ。

 

ただ、キャラはまったくもってイケメンではないし、むしろ中学生という設定に違和感があるくらいに渋すぎる。

 

そもそも戦闘時に座るのが椅子じゃなくて座布団とか。

 

周りのキャラにも少し引かれる。

 

 

作中での彼の立ち回りは、すごくシンプルで「兄弟愛」である。

 

親父さんが失踪しているので、兄弟だけで暮らしている。

 

そして、親父さんの弟の叔父さんがとてもいい役回りを引き受けている。

 

この回であまりにも皮肉なのが、兄弟と約束した遊園地に行く日の前日に敵が現れてしまうこと。

 

つまりこの時点で、敵が待ってでもくれない限り、遊園地にはいけないし、その状態では遊園地は開園しない。

 

彼はどう足掻いても、兄弟とは遊園地に行けない運命にあったということにほかならない。

 

 

ダイチ自身がかなりの人格者なので、前回のコダマのような思考ではなく、近場に人間がいないところで戦おうとするが、これがまた裏目に出てくる。

 

その避難が終わった区域が、遊園地のあるエリアだった。

 

それを丸ごとぺしゃんこにしようとする敵。

 

敵も並行世界の人間なので、戦闘の開始を待ってくれるやつもいれば、待たずに攻撃をしかけてくるやつもいる。

 

自分の世界の全ての命、地球を背負っているのを知ってるのかもしれないし、知らないのかもしれない。

 

ただ殺し合いに乗るしかないのがこの作品の残酷さである。

 

 

結果、ダイチは戦闘には勝つわけだが、ご都合主義で生きてて遊園地に行ける…なんて甘いアニメじゃない。

 

一番年上の妹が兄の代わりに弟たちを遊園地に連れていくが、弟たちはダイチが来ないことに憤慨する。

 

兄が、その遊園地を守って死んでいったということを知ることはない。(アニメ最終回でその話を聞かされてる描写はある。)

 

残される人の想いがあまりにもダイレクトに伝わってくる回である。

 

しかも、彼らが戦っているということを誰も知らない。

 

地球は守られているが、彼らをヒーローと崇める人はいないのだ。

 

その中で自分だけが死ななければならないとは、いくらなんでもえげつなさすぎる。

 

 

そういえば、アニメ版と原作ではパイロットに選ばれる順番が違う。

 

二人目のコダマまでは同じだが、コダマの死の直後に「操縦したら死ぬ」ということを主人公たちは知ることになる。

 

原作は三人目にダイチが選ばれるので、その場合の精神状態はえげつない。

 

次のこの関連の記事で書く事になるアニメ版三人目のパイロット、カコは本当に目も当てられない。

 

今考えてみると、アニメと原作のチズを渦巻く界隈と、順序がきっかり逆になってるわけだけど、ダイチをそれくらい残したかったのかな。

 

 

自分の運命を受け入れて他人たちのために死ななきゃいけないなんて、できることなのだろうか。

 

まあ戦わなくても結局自分も死んじゃうんだけど。

 

正直言って中学生が抱えれる問題じゃない。

 

 

たまに寝てる時に見る夢で、世界が終わるみたいな夢を見たとき、怖すぎて目覚める時がある。

 

その恐怖は「死んでしまうこと」というよりかは「この先に自分の歴史がない」ということのように感じる。

 

もう何もない、自分が誰かと笑うこともできず、何もできない。

 

それが怖い。

 

生まれ変わりがあったとしても、もう記憶なんてない。

 

生死に関しては、生きているだけじゃ計れない。

 

でも死は個人的な意味で永遠の終わりを告げる。

 

 

誰もヒーローと思ってくれない、思ってくれたとしても、もう自分はそこにはいない。

 

そこに存在してもいない。

 

それが本当の恐怖。

 

現実媒体じゃないものが増えすぎる。

 

昔より過激なゲームや、映像も増えたし、それを簡単に観ることが可能になった。

 

それ自体を悪いこととは思わないが、受け取り手次第によっては狂気にもなる。

 

つまり言うなれば、クリックやタップ一つで人を殺せるような時代だ。

 

現代社会は、命に対しての境目が曖昧になってきているのを感じる。

 

だからこそ、自分が手にする銃の引き金を引くときは、十分に気をつけなきゃいけない。

 

「ぼくらの」の時代設定は少し未来の話だが、アニメ化自体は2007年。

 

作中に登場するケータイも、ガラケーだ。

 

だが作者が、上で書いたような「命に対しての境目が曖昧になってきた」という世界をずっと昔に描いていると考えると、とても恐ろしい。

 

 

遊園地を守っても、自分はそこには行けない。

 

世界を守っても、誰からも感謝されない。

 

その世界で、自分は同じ選択をできるとは到底思えない。

 

結局は孤独の世界で、人間は孤独に死んでいくしかないということなのかもしれない。

 

その時に守る理由があるのなら、きっと人は孤独ではない。

 

ダイチは、死んで消えてしまったとしても、兄弟や、兄弟のいる未来を守れたのだから。