生田斗真主演の映画「脳男」を観たけどグロとかじゃなく、マジで吐いた話(ネタバレ注意)

昔から生田斗真が好きだ。

 

イケメンが好きなのもあるが、夜職の時にたまに似てると言われていたのも理由の一つではある。

 

久しぶりに生田斗真主演の「土竜の唄」をレンタルしたついでに、昔から気になっていた脳男もレンタルした。

 

土竜の唄のヤンキーチックな雰囲気と違って、このアンニュイな感じがとても似合うのも生田斗真ならでは、である。

 

イメージしていた通り、冒頭から暗い。

 

こういった暗い雰囲気の映画は大好きだ。

 

最初の方から、バスが爆発して、子供が燃えてるシーンは胸にくるものがある。

 

とはいえ、その特殊メイクが何か怖い。

 

子供を被害にあわせる映画って、日本じゃつくりにくいだろうし、全体的に空気の重さも日本向けじゃないのはたしかだと思った。

 

あと、出演してる人たちの演技が心に直接ぶつかってくるのが、良くも悪くもキツイ。

 

少し前にDMCを観てたから、松雪泰子もさすがだなあ、と思いながら見入っていると、江口洋介も出てて、まさに出演してる人たちからして本気で作りこまれているのが分かる。

 

あと、生田斗真が出てくるのが遅い。

 

それと、途中までまともに喋らないから、てっきり敵なのかと思わせられてしまった。

 

見事に騙された。

 

この作品での敵といえば、二階堂ふみ

 

彼女をあまりスクリーンで観たことがなかったが、もう役の入り方がえげつない。

 

宮崎あおい2と個人的に思ってたけど、宮崎あおいより出てる作品は面白い。

 

ちなみにどうでもいいが、宮崎あおいが出てた「青い車」という映画は、個人的にワースト3に入るほどの駄作だった。

 

あと、後半「爆発させとけ」みたいな感じで爆弾が爆発しまくるんだけど、あれは少し厄介だった。

 

爆発のシーンは何となく音も大きいし、

 

あ、爆発した、この人死んじゃうのかな?→うわあ…

 

みたいな流れが少し脳内で厄介だ。

 

後半はトイレを我慢しながらだったので余計に辛かった。

 

ちなみに何で、この映画をブログに書こうと思ったかというと、今まであまり体験したことがなかったことが身に起こったからだ。

 

 

 

前回体験したのは、ゲーム「SIREN2」をクリアしたときだから、17〜8歳位の頃だと記憶している。(15年ほど前)

 

永井頼人というキャラのエンディングにて起こる、世界の反転による世界を見た永井頼人が発狂するシーン。

 

あの時に「正しい行いが人を救うわけではない」と刻みつけられた。

 

そして、どう考えてもメンタルブレイクとしか言いようのないことが起こった。

 

圧倒的な虚無感、圧倒的な孤独感。

 

何をしても救われないという、絶望感。

 

そんな負のエネルギーを身と心に、永続的に刻みつけられる感じ。

 

身体的に言えば、インフルエンザの時に毛布を着込んでも寒い、みたいな感覚が心で起こる。

 

永遠に降りていくかのような、らせん状のネガティブ。

 

ある意味、身体的なダメージより深刻な気がする。

 

このゲームのエンディングを見たときは、2日間ほどまともにご飯が食べれないという状況に陥ったくらいだった。

 

元々当時は中二病全開で、俺に感情はないなんて思ってた時期だったから、こんなえげつないストーリーを考えられる人がこの世にいることが信じれなかった。

 

 

さて話を戻すと、脳男にて江口洋介演じる刑事の部下が身体に爆弾を巻きつけられているところのシーンである。

 

生田斗真演じる一郎を、ピストルで撃ち殺せば部下は助けられると聞き、銃口を向ける。

 

その戦闘の最中、その部下は自分がもう助からないことを悟って「俺が死ぬから、やめて」と泣きながら横に倒れ爆弾が爆発する。

 

自殺を選んでしまったわけだが、そのシーンを観てから、胸が締め付けられた。

 

崩れ落ちる江口洋介の演技も相まったのはあるが。

 

俺はそれを観たあと、トイレに行って吐いた。

 

上で話したようなネガティブが、今度は胃まで侵食してきたらしい。

 

その後もそのシーンが忘れられず、ただモヤモヤが残ったままだった。

 

 というかあのシーンが焼き付きすぎて離れない。

 

危うく二階堂ふみ嫌いになるとこだった。

 

でもあの演技もすごいし、狂気が伝わってくる。

 

やっぱり役者さんってすごいなあ。

 

 

この映画を通して、生田斗真が演じるキャラは、実は生粋の善人である。

 

そこが最初の方から悪人だと錯覚を起こしてしまうように描かれているのはさすがとしか言い様がない。

 

だが、その善は本当に正しいのか?という問いかけによって締めくくられる。

 

これは「バトルロワイヤル2」とか「デスノート」にて描かれているもののように感じる。

 

力を持って、常識を持って、間違いを正すとしても、そのために人を人が裁くのはどうか、という永遠のテーマである。

 

正義は角度を変える。

 

この「脳男」でいうのであれば、精神科医や警察からしたら、結局は一般の人間である主人公が人をその手で殺すことは悪にしかとらえられないのである。

 

それを正義と主張しないのが、この生田斗真の役の面白いところだが。

 

しかもこの映画は、あまりハッピーエンドでも終わらない。

 

殺したいほど憎い人物を許し、更正させたはずだったのに、結局その人物は更生しておらず、その悪を暴かれ主人公によって殺されることになる。

 

社会的に見たら、それは悪に映る。

 

しかし、救われた人からしたらどうなのだろうか。

 

その死によって救われた人がいた。

 

何を守ればいいのだろう。

 

自分の命が脅かされたとき、同じことを人間は言えるのだろうか。

 

 

デスノートで、キラがやっていたことを支持する人間がいたのも当たり前だ。

 

悪とする一方で、正義と称える人もいる。

 

その裁きを下す権利を持ち合わせていないのは、事実だが「正義」という線引きは曖昧すぎるのだ。

 

そして、これからも人が人である限り、それは消えることはない。

 

人間に与えられた永遠のテーマである。

 

人を許すことは、人を殺すより難しいから。

 

その強さも正しいのか。

 

そして、角度も変えるのか。

 

このモヤモヤがとれないのが、すごくもどかしい。

 

 

最後に言っておくと、脳男というタイトルの割に頭脳戦はほとんどない。笑

男だからって食べ放題の値段が高いのは少し違うと思う。

昔から、俺は小食だ。

 

今では前よりマシだけど、少し食べただけでお腹はいっぱいになる。

 

そうなると昔から困ったことが発生する。

 

飲み会の時なんかの「食べ放題」だとどうも損をした気持ちになるわけだ。

 

女性より、500〜1000円高いとかはザラである。

 

あれって結局のところ、男性の方が女性よりも飲み食いするから高いわけだよね。

 

別に文句も言ったことはないんだけど、昔からそこに関しては違和感を感じてて。

 

でもたまに、全く食べない時とかもある。

 

一口食べただけでもう満足…ってことはよくある。

 

母親と一緒に行った時間無制限の食べ放題のお店を、32分で出るような胃袋だ。

 

こと「食」に関しては全くもって元を取れない。

 

でもその人が食べるか食べないかなんて、判断材料が男性か女性かで見極めるしかないのも事実。

 

別に500円をケチるつもりもない。

 

でも何か違うなあ、と考えもしてしまう。

 

 

仲の良いメンバーの中に、めっちゃ食べて、めっちゃ飲む奴がいる。

 

ああいうのは本当に元を取れてるんだと思う。

 

その仲間内でも、俺は本当に食べない方なので、いつもちゃんと食べてるか心配される。

 

〆のラーメンとかももってのほかで、何で飯を食って、酒を飲んだあとに、もっかい飯を食べるのかが分からない。

 

ていうか、みんなよく入るよなあ。

 

食べるのが嫌いとか、苦手とか、めんどくさいとかはない。

 

むしろ美味しいものは好きだし、たくさん食べたい。

 

でも入らない。

 

コース料理とかも、あんまり食べれないし、少し損した気持ちになる。

 

そういえば、結婚式とかで出てくる料理とかも、後半の方は入らない。

 

メインディッシュの肉とかもっと美味しいタイミングで食べたいのに。

 

もし俺が結婚式をするとしたら、そういうアンケートをとりたいくらい。

 

むしろずっと肉だけでも良さそうなのに。

 

 

もっと食べれるようになろうと決意。

 

それにしても中身のない記事を書いてしまった笑

人生なんて舐めてるくらいが丁度いい

世の中には、生きることに絶望した人がいる。

 

世の中には、生きていくことに絶望した人がいる。

 

なぜか追い詰められた人は死を選ぶ。

 

俺にはそれが分からない。

 

死ぬことを考えると、ただただ怖い。

 

自分の思考の範囲外に飛び出さなければならないし、それを実際に理解するときには、もう自分はこの世にはいないのだ。

 

それでも、この世には自ら死を選ぶ人がたくさんいる。

 

それほど、絶望したのだろう。

 

きっとその絶望は、俺なんかには理解できないほどのものなのだ。

 

 

 

人は対人関係において悩むことは多い。

 

職場でも学校でもそうだ。

 

いじめだったり、グループの違いだったり。

 

それはどこに行っても付いて回るもの。

 

結局のところ、他人がこちらの人生に干渉してくることからは逃れられない。

 

そこに苦しみしか見いだせなかったとしたら、その苦しみを続けるのが嫌になるのは、至極当然のことである。

 

 

俺は昔、とんでもなく真面目だった。

 

今も根本的には真面目なのだが、だいぶ緩く考えれるようになった。

 

厳格な両親の元、真っ直ぐに育てられた。

 

それはスパルタとも呼べるようなものだった。

 

子供の頃に植えつけられた「常識」にまだどこかでとらわれている。

 

 

仕事をしているとき、誰よりも真面目に働いた。

 

給料をもらうためには、しっかりと働かなければならない。

 

遅刻もしないし、上からの命令には完全に忠実である。

 

犬のように飼い慣らされていれば、怒られることもない。

 

働いていると、よく「社員にならないか」と誘われた。

 

それは本当に嬉しいことだったが、どこも断り続けていた。

 

立場が嫌いだった。

 

ただそれだけで、仕事自体が嫌になったとかはない。

 

それくらい仕事を好きになってから、働く。

 

それが働かせてもらう側の、当然の思考だと思っていた。

 

休みも自分では決めない。

 

そのほうが店に、社会に迷惑をかけないと思っていたからだ。

 

正月やお盆、クリスマスやGWのような人手が足りなくなるイベントには、本当は嫌だったけど休みをとらなかった。

 

それくらい従順に働いていた。

 

 

昨年、とある大手のリサイクルショップに勤めていたときの話だ。

 

持ち前の真面目さと、仕事をすぐに覚えた努力によって、バイトリーダーを任されていた。

 

これは別に、このときのお店が初めてではない。

 

昔から、こういうポジションを任されることが何かと多かった。

 

新人に怒ることなく仕事を教えるのも上手い。

 

そもそも怒ること自体がナンセンスだと思っている。

 

休みも主張しない、急な欠勤が出たら代わってシフトに出るし、上からの指示には「YES」しか答えない。

 

まさに会社から見たら理想的な駒である。

 

その時も、それまでも、それでよかった。

 

俺はそういう生き方をしていくものだと、心で思っていたわけだ。

 

 

しばらく働くと、いろんな想いが交錯していた。

 

原因は店にも、人にもあった。

 

基本的に社員は圧倒的な残業に見舞われる。

 

そしてそれに付き合わされることが増えた。

 

残業という言葉は、昔から嫌いだった。

 

理由は「自分の時間が減る」から。

 

自分の時間を楽しくするために働いているのに、残業なんかしてたらその時間も終わってしまう。

 

だが、NOを言えない俺は常に要望に応え続けた。

 

そういうことがしばらく続くと、社員たちは定時で帰るスタッフを邪険にし始めた。

 

何となく立場的に優遇してもらえることに優越感を味わいながらも、他のスタッフを邪険にする理由はないことを思うとモヤモヤしたものが胸の中に残っていた。

 

しかし、仕事ができない人や、仕事をしない人とも俺の給料は変わらない。

 

ほんの少しのモヤモヤを抱えながらも、働いた。

 

正月は朝の9時から、夜の22時まで働いた。

 

何となく、生きている実感を持てなかった。

 

 

普通に分かっていた。

 

他のスタッフは、俺に甘えている。

 

何かミスをしても、俺がフォローをするし、基本的にほとんどの仕事ができたから。

 

後始末も、手伝いも、何をやっても万能にこなせる。

 

他の人は別に俺の仕事量を真似しなくても同じ時給がもらえたのだった。

 

俺は「接客業が好き」だった。

 

だから接客を大事にしているということを聞いて、この店で働きたいと思ったわけだ。

 

いつの間にか、いろんな仕事を任されているうちに「接客」をする時間さえもらえなくなった。

 

何となく、この仕事に嫌気がさしてきていた。

 

 

ある日、新人のスタッフに仕事を教えている社員が所用で席を外した。

 

その時に俺は仕事を振られていてバタバタしてたのだが、新人スタッフのもとにお客が来て、テンパっているのは分かった。

 

質問されたから、それに答える。

 

正直な話、先輩スタッフとしては理想だったと思う。

 

その間に振られていた作業の手は止まった。

 

新人のスタッフに仕事を教えていたからだ。

 

時間の配分はできていたし、それを教えたら戻るつもりだった。

 

 

怒られたのは、俺だった。

 

「別の仕事はしなくていい」

 

そんな淡白な理由で。

 

それなら席を外さなきゃよかったし、お客に質問されてテンパっているのだから、そこを放置するのも違うでしょう、と正論をぶつけた。

 

それから、その社員は俺への対応が圧倒的に変わった。

 

別に俺は気にしてなかったけど、仕事場に個人的な感情を持ち込む人は昔から嫌いだった。

 

何となくこの仕事に冷めてきたのを実感していた。

 

 

 

そこで仲良くなったスタッフに起業を持ちかけられた。

 

joinchu.hateblo.jp

 

↑それが、この時の記事だ。

 

自分の考えていた思考や、持っていた概念はとても脆いものだったと知った。

 

もう、その職場にいる意味が見つけられなかった。

 

こんな真面目一辺倒で、社会に時間も搾取される生き方をしなくていいんだ!

 

そう考えると胸は踊った。

 

自分への反抗、それが何より心地よいものだった。

 

自分の中で、自分に向けた革命が起きた。

 

真面目だった俺がGWを目前に、仕事を辞めた。

 

社員や周りのスタッフは止めてきたが、もう俺は止まれなかった。

 

 

今まで真面目に生きてきて、社会は、世界は俺に何かしてくれたか?

 

答えはNOだった。

 

マイナスが生じると、すぐに切ろうとしてくる。

 

つまり本当の意味で、使い捨てのコマなのだ。

 

そして、もっと言えば残業している社員でさえも、そのいい例だ。

 

もっと上の、もっと大きな立場によって命を握られている。

 

それが社会というピラミッドなのだ。

 

真面目に生きてきたのに、それが何にもならないことを何となく実感していた。

 

 

自分の生きてきた真面目さの概念に亀裂が入ったおかげで、自分の生き方の軸みたいなものがハッキリした。

 

生きてきた中でどこか、ずっとモヤモヤしていた。

 

接客業で繁忙期に休めないのは当たり前?そんなの誰が決めたんだ。

 

真面目に働くのが大事?苦労は買ってでもしろ?

 

勝手にそう言ってただけ。

 

思わされてるだけ。

 

誰かの言った常識に振り回されて、そこで思考を止めてしまっていただけ。

 

 

時給は、働いてから得る対価ではない。

 

自分の命を時間刻みで、会社に売っているというシンプルなもの。

 

そしたら、もっと自由に生きないと割に合わない。

 

世の中そんなに甘くないって、生きてたら誰かに言われたことがある。

 

そんなこと言うやつに限って、そういうことをやったことない、とか挑戦したことがない。

 

自分の夢を諦めて人の足を引っ張る思考停止人間。

 

世の中甘くないかどうかは、お前が決めることじゃねーよって。

 

そんなことを考えて、俺は生き方を変えるスイッチを押したんだ。

 

自分の歩みを止めない、この足は前に向かっている。

 

目は前を見ている。

 

だから進め。

 

もっと楽しく、もっと自由に、もっと強く。

 

もっと遊ぶ。

 

自分が今まで、真面目に生きてきたことを、ぶち壊す。

 

そして、その先で俺は笑っていたい。

 

だから人生を舐めて生きていけるってのを、俺が実証していくところ。

 

 

 

生きるのを放棄するのは愚かだ。

 

人生自体には勝ち負けはなく、そのレールから降りたものが負け。

 

俺はとんでもない借金を背負ったことがあるけど、生きてる。

 

生きてこれてる。

 

生きてれば何とでもなる。

 

生きていれば前に進める。

 

だから、死ぬより、今の自分を殺して新しい自分に生まれ変わる。

 

それが来世である必要なんて全くないのだから。

 

楽しく、笑って、全力で生きていく。

 

アニメ・漫画「ぼくらの」に学ぶ人間論②〜ダイチ編〜(ネタバレあり)

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さて、前回に引き続き書いていこう。

 

今回はダイチ編。

 

そもそもこの回を観たことにより、このアニメにハマることになる。

 

特に「ぼくらの」というアニメは一話目、二話目まで面白くない。

 

ただの謎のロボットアニメすぎる。

 

しかもロボットアニメにもなりきれない。

 

たまたまこのアニメの放送の時にテレビをつけてなかったら一生観ることはなかったかもしれない。

 

 

声優は一発で分かる。

 

杉田智和。(一番下の妹の声は、まさかの釘宮理恵。)

 

銀魂ハルヒでお馴染みのあの人だ。

 

ただ、キャラはまったくもってイケメンではないし、むしろ中学生という設定に違和感があるくらいに渋すぎる。

 

そもそも戦闘時に座るのが椅子じゃなくて座布団とか。

 

周りのキャラにも少し引かれる。

 

 

作中での彼の立ち回りは、すごくシンプルで「兄弟愛」である。

 

親父さんが失踪しているので、兄弟だけで暮らしている。

 

そして、親父さんの弟の叔父さんがとてもいい役回りを引き受けている。

 

この回であまりにも皮肉なのが、兄弟と約束した遊園地に行く日の前日に敵が現れてしまうこと。

 

つまりこの時点で、敵が待ってでもくれない限り、遊園地にはいけないし、その状態では遊園地は開園しない。

 

彼はどう足掻いても、兄弟とは遊園地に行けない運命にあったということにほかならない。

 

 

ダイチ自身がかなりの人格者なので、前回のコダマのような思考ではなく、近場に人間がいないところで戦おうとするが、これがまた裏目に出てくる。

 

その避難が終わった区域が、遊園地のあるエリアだった。

 

それを丸ごとぺしゃんこにしようとする敵。

 

敵も並行世界の人間なので、戦闘の開始を待ってくれるやつもいれば、待たずに攻撃をしかけてくるやつもいる。

 

自分の世界の全ての命、地球を背負っているのを知ってるのかもしれないし、知らないのかもしれない。

 

ただ殺し合いに乗るしかないのがこの作品の残酷さである。

 

 

結果、ダイチは戦闘には勝つわけだが、ご都合主義で生きてて遊園地に行ける…なんて甘いアニメじゃない。

 

一番年上の妹が兄の代わりに弟たちを遊園地に連れていくが、弟たちはダイチが来ないことに憤慨する。

 

兄が、その遊園地を守って死んでいったということを知ることはない。(アニメ最終回でその話を聞かされてる描写はある。)

 

残される人の想いがあまりにもダイレクトに伝わってくる回である。

 

しかも、彼らが戦っているということを誰も知らない。

 

地球は守られているが、彼らをヒーローと崇める人はいないのだ。

 

その中で自分だけが死ななければならないとは、いくらなんでもえげつなさすぎる。

 

 

そういえば、アニメ版と原作ではパイロットに選ばれる順番が違う。

 

二人目のコダマまでは同じだが、コダマの死の直後に「操縦したら死ぬ」ということを主人公たちは知ることになる。

 

原作は三人目にダイチが選ばれるので、その場合の精神状態はえげつない。

 

次のこの関連の記事で書く事になるアニメ版三人目のパイロット、カコは本当に目も当てられない。

 

今考えてみると、アニメと原作のチズを渦巻く界隈と、順序がきっかり逆になってるわけだけど、ダイチをそれくらい残したかったのかな。

 

 

自分の運命を受け入れて他人たちのために死ななきゃいけないなんて、できることなのだろうか。

 

まあ戦わなくても結局自分も死んじゃうんだけど。

 

正直言って中学生が抱えれる問題じゃない。

 

 

たまに寝てる時に見る夢で、世界が終わるみたいな夢を見たとき、怖すぎて目覚める時がある。

 

その恐怖は「死んでしまうこと」というよりかは「この先に自分の歴史がない」ということのように感じる。

 

もう何もない、自分が誰かと笑うこともできず、何もできない。

 

それが怖い。

 

生まれ変わりがあったとしても、もう記憶なんてない。

 

生死に関しては、生きているだけじゃ計れない。

 

でも死は個人的な意味で永遠の終わりを告げる。

 

 

誰もヒーローと思ってくれない、思ってくれたとしても、もう自分はそこにはいない。

 

そこに存在してもいない。

 

それが本当の恐怖。

 

現実媒体じゃないものが増えすぎる。

 

昔より過激なゲームや、映像も増えたし、それを簡単に観ることが可能になった。

 

それ自体を悪いこととは思わないが、受け取り手次第によっては狂気にもなる。

 

つまり言うなれば、クリックやタップ一つで人を殺せるような時代だ。

 

現代社会は、命に対しての境目が曖昧になってきているのを感じる。

 

だからこそ、自分が手にする銃の引き金を引くときは、十分に気をつけなきゃいけない。

 

「ぼくらの」の時代設定は少し未来の話だが、アニメ化自体は2007年。

 

作中に登場するケータイも、ガラケーだ。

 

だが作者が、上で書いたような「命に対しての境目が曖昧になってきた」という世界をずっと昔に描いていると考えると、とても恐ろしい。

 

 

遊園地を守っても、自分はそこには行けない。

 

世界を守っても、誰からも感謝されない。

 

その世界で、自分は同じ選択をできるとは到底思えない。

 

結局は孤独の世界で、人間は孤独に死んでいくしかないということなのかもしれない。

 

その時に守る理由があるのなら、きっと人は孤独ではない。

 

ダイチは、死んで消えてしまったとしても、兄弟や、兄弟のいる未来を守れたのだから。

 

 

人生を変えた本

去年の今頃はまだ完全なる社畜という生き方をしていた。

 

というのも、お金を稼ぐ手段なんて企業に属するしか知らなかったからだ。

 

その時の働き先で、仕事場の先輩に「起業をしないか?」と誘われたことが発端。

 

その言葉で今まで考えていた生き方に少しの亀裂が入った。

 

「え?そういうのって、才能とかコネとかお金とかないといけないんじゃないの?」

 

という不安と、

 

「もしかしたらそんなのがなくてもできるのかな?」

 

という期待が完全に混合していた。

 

 

田舎で生活をしていると、どうしても「常識」みたいなものを尊重する生き方を選択せざるを得ない。

 

周りがそれで生活をしていて、生きていくのを強制的に見せられてしまうから、そういう生き方しかできないんだと、小さい頃から思わされる。

 

家族にもそういう生き方を強いられる。

 

そしたら「いい学校に入って、いい会社に入って、平日は働いて、休日に好きなことをする」という…まさに敷かれたレールの上を歩くだけの生き方になる。

 

その生き方が楽しくて、安定していて、不安に怯えたくないというのなら、その生き方に何も異論はない。

 

だけど、この世の中にはそれが嫌だったり、そういう常識の範疇の人と共存できない人がいる。

 

俺なんてまさにその典型的な例の人間。

 

常識的な生き方を親にずっと言われてきたが、今の時代にその常識はどこまでが正しいのかなんて疑いもしないのは、ただの思考停止だ。

 

 

タイトルの話に戻すと、何か頭の中で「起業と言えば堀江貴文みたいなところがあった。

 

理由はわからないが、何となくライブドアだって大きな会社だったし、あんな金持ちになりたい、みたいなそんな単純な思考だった。

 

捕まってからはよく何をしてるのか分からないな、と思っていたくらい彼に関しては知らなかった。

 

とは言え、ビジネス本なんて読んでもわからないから、とりあえず彼の生き方を最初に読んでみようと思った。

 

それが堀江貴文の「本音で生きる」という本。

 

ビジネスとかはほとんど関係なく、メンタルを作るためのものだが、たまたま手にとったこの本が自分の人生を大きく変えることなった。

 

これからの時代に、というか、今までの自分にとって新しいことだらけだった。

 

俺は自分の時間を生きていなかった。

 

人の顔色を伺っていただけ。

 

それで、誰にも嫌われないように無難な生き方を選択してきただけだった。

 

なんて、つまらない生き方をしてきたんだろうと思った。

 

誰にも嫌われないやつが、誰かに好かれることがないと実感した瞬間だった。

 

どちらかと言うと、堀江貴文の書く本はビジネスというよりマインドのほうが多いように思う。

 

そして逆に大事なのは、そういうところ。

 

彼の言ってることは、これから先を生き抜いていくためのシンプルな術だ。

 

俺は生き方が自由になることを、そして、これからの時代が今までのように進んでいくわけではないことを何となく頭の中で描いていた。

 

もっと自由に生きる、それを願い、そのために強く生きようという覚悟ができたのは、この本に出会えてからだと思う。

 

堀江貴文はこの本のことを「自分にとっては当たり前のことすぎて退屈だった」と語っている。

 

しかし受け取り手によって、その世界は見え方を変える。

 

俺には、彼にとって退屈なその本が、何よりも光り輝いて見えた。

 

俺ももっともっと未来を見ていきたい。

 

 

 

結局、先輩に誘われた起業計画は、停滞した。

 

自分の中でやりたいことが変わったからだ。

 

起業とは、起業とは結局どこかで何かに縛られる。

 

その生き方は大きい視野で見ると、自分が自由に生きることとはかけ離れている。

 

少なくとも今はそうだ。

 

もっともっとすごいやつになりたい。

 

夢は漠然としているけど、もっと形にしていきたい。

アニメ・漫画「ぼくらの」に学ぶ人間論①〜コダマ編〜(ネタバレあり)

 

ここ最近あって、久しぶりに大好きなアニメの一つである「ぼくらの」を1話目から観てみた。

 

2クールあったので、24話。

 

昔、このアニメにハマって原作の漫画も集めたくらいだ。

 

最初に観たのは10年ほど前。

 

たまたま夜中にやっていて、背景の絵が綺麗だなーと思って見入ってしまってから。

 

それはダイチ編で、声優が杉田智和だったこともあり、テンションが上がった。

 

終わってから気になって調べてみると、一度の戦闘ごとにパイロットは死ぬというヘビーな内容。

 

鬱エンドとかそういうのが大好きな陰湿な俺は、その設定だけで惹きつけられた。

 

DVDをレンタルして、一話目から観た。

 

最初の感想は、声優が豪華すぎるという声豚的なものだった。

 

阪口大助に、保志総一朗宮田幸季石田彰野島健児

 

チョイ役で鈴村健一に、中村悠一。あと菅生隆之とか。

 

今回見返してみて知ったが、浅沼晋太郎も出てて驚いた。

 

このアニメはロボットを媒体にしているが、完全に人間ドラマだ。

 

そもそものテーマが重い。

 

ロボットに乗って、戦いの後に死ぬ運命をどう受け入れていくのか。

 

それが課されるのは中学生。

 

しかも地球の運命だとか、政治的なものにも巻き込まれる。

 

親との確執だったり、いじめへの葛藤だったり、滾る性欲だったり。

 

人間模様があまりにも重すぎる。

 

作者絶対病んでる。

 

途中まで分からないが、戦ってる相手もまた、同じ人間。

 

戦わないことを選択しても、互の平行線軸の宇宙が消えるという。

 

人の命を奪って、こちらの地球を守り、自分だけ死ぬか。

 

負けて、こちらの地球もろとも死ぬか、の選択しか与えられない。

 

ヘビーすぎる。

 

とりあえず今は「ぼくらの」への愛が強すぎるので、特筆すべきキャラを書き出してみようと思う。

 

ちなみにアニメ版は、原作の途中で始まったので、途中から完全にオリジナルストーリーだ。

 

 

最初に書くのは、コダマ。

 

声優が保志くんなところもあり、好き。

 

それだけじゃなくて、中二病の完全なる発症者で、発言や行動なんかもいちいち中二病

 

このキャラがあまりにも中学生の時の俺にかぶりすぎてて好き。

 

普通に考えたら、いじめられたり、嫌われたりするような性格してる。

 

まっとうな考え方をしてる兄貴達からはよく怒られてるが、世間的に見て悪者の親父を尊敬してるところはきちんと現実主義。

 

若い時の俺の思考なら完全に正義感を振りかざして、この考え方は間違ってる!とか言ってたかもしれないが、至って人間の強弱についてしっかりとらえているキャラだ。

 

実際に正義感や、正しいことだけで飯は食っていけない。

 

綺麗事をほざく前に、生きることを選択し、そのために効率のいい方法を探しているだけなのだ。

 

たしかにそこが人道的なものだったり、モラルの観点から見るとずれることはあると思うが、あくまで正解をひとつに絞ってはいけないと思う。

 

結局のところ、コダマ編で描きたかったのは「この地球上では強者が弱者を食い物にしている事実があるということ」のように感じた。

 

そして上記のそれに関して「悪いこと」とか「いいこと」という概念を介入させずに、だ。

 

むしろ食物連鎖という観点から見ると、悪いことは何らないはずだ。

 

最初の1話目(いわゆるキャラ紹介の側面が強い)で彼は、カニを花火で焼き殺している。 

 

女子陣には総スカンをくらい、まっとうな男子陣には少し呆れられたりしている。

 

もちろん男子の中には同調するやつもいるわけだが、こいつの場合はいじめすらも外野からただ見てるだけの中途半端なやつである。

 

コダマの場合は「どうせ死にそう(そんな運命)だったから、やっても大丈夫」と開き直っている。

 

彼は悪口を言われても、彼なりの意見を突き通すわけだ。

 

そして、そのカニと同じようにロボットでの戦い時に、民間人を躊躇いもなく踏み潰す。

 

何人だったかは覚えてないが、一億人が助かるなら、目の前の1000人くらい死んだってどうってことないというえげつない開き直りっぷり。

 

逆を言うと、ここまで開き直れるのだからメンタルは相当強いはず。

 

死んでしまう人間を「そいつはそこで死ぬ運命だったんだから仕方ない」と切り捨てる。

 

本質的に人間の中には、自分に無関係な人間はどうでもいい、という心理があるはずだ。

 

それは言葉にすると冷たく感じられるが、おそらく戦争においては完全に有利に働くし、一番現実を見ている。

 

しかしその直後、自分の大好きな親父さんを自分のミスで殺してしまって、完全に動揺してる。

 

でも、そこも可愛い。

 

本人の言う言葉を使えば、親父さんも「そこで死ぬ運命だった」というところが皮肉にほかならない。

 

自分の大事な人が死んだら取り乱すところは、あまりにも愚かと言える。

 

自分が踏み潰した人たちにも大事な人はいたし、誰かにとって大事な人はいたはずなのだから。

 

彼はおそらく、そこを履き違えているというか、中学生ながらの中二病を発揮しすぎたのだった。

 

誰かを守る、ということの意味を知らないままだったのだ。

 

 

コダマの場合、二人目で死んでしまうキャラなので、自分が死ぬということを知らない。

 

彼がもし後回しで、そこに向き合った時、どんな答えを出したかみてみたい。

 

小説版では死ぬ順番も登場キャラも違うため、人間的に成長するコダマが見れるらしい。

 

この熱のあるうちに読んでみたいところだ。

 

アニメは、まだ原作に準じているところなので、原作の漫画版とはほとんど変わらない。

 

昔、バンドをしていたときに、このコダマから名前をとってつけたことがあった。

 

自分にとってもすごく特別なキャラであることを思い出せた。

 

 

今回はここまで。

人に嫌われることを恐れない

 

最近、とある相談を受けた。

 

仕事でお客さんに言われた言葉で傷ついた、という相談だ。

 

ネイルという技術職で「下手ですね」と言われたことが悔しかったらしい。

 

専門の資格も一番上のを持っているくらいすごい人なのだが、悪口に対する耐性がなさすぎる。

 

もちろんそんなことは当たり前で、普通に生きてるなら悪口なんて言われることはそんなにないし、言われて嬉しいと思う人は稀だろう。

 

つまるところ結局は、プライドのせいで傷ついているとも言える。

 

これはコンプレックスという言葉にも置き換えることができる。

 

例えるとするなら「太っている」という悪口は、その人が気にしていないと生じないものだ。

 

ガリガリの人が、あてつけではなく本当の意味で「デブ」と言われても、違うのだから気にはならない。

 

自分が気にするところで、その特定の言葉を言われるという状況下において、初めて悪口として機能するわけだ。

 

今回のことに関しても、余計なプライドがあるせいでいちいち傷ついてしまう。

 

もちろん、その人が努力を怠ったりしたのもあるとは思う。

 

だが、たまにくる悪口を受け止めすぎて、押しつぶされてしまうのは本末転倒だ。

 

相手にとっては悪意がない場合もある。

 

ネガティブな人と、ポジティブな人では、手に持っている花に向けて「綺麗ですね」と言ったとき、全然違う捉え方をする。

 

「私が綺麗じゃないからそんなこと言うんだ」と勝手に傷つく。

 

この場合もちろん相手に悪意はないのに、だ。

 

人間、捉え方次第で、どれだけでも嬉しくなれるし、どれだけでも落ち込める。

 

だから、自分が受け取る言葉は自分の中で、丁寧にポジティブに受け取ったほうがいい。

 

 

そういえば、俺は結構こういう相談を受けることが多いんだけど、よく言われるのが

 

「人に嫌われるのが怖くないんですか?」とか「人のことなんとも思わないの?」とかそんな感じだ。

 

確かに淡白といえば淡白なんだろうけど、もちろん人に嫌われたくて生きてるわけじゃないし、嫌われるのは嫌だし、怖い。

 

それを誤魔化せるようになったというだけ。

 

一年くらい前までは、誰かに嫌われることをとにかく恐れていたし、自分の意見なんてのもほとんど言えなかった。

 

自分がないし、自分のことも言えない。

 

自由に生きるということの意味が分からなかった。

 

でも「嫌われること」をそんなに怖がることではない、ということはわかった。

 

昔から、誰にも嫌われたくなくて、無難に生きていた。

 

だから自分の意見も言えなかったし、嫌われないようにするために生きてきた。

 

でも人間、そんなのは無理がある。

 

全ての人に好かれることなんて、本当に無理だ。

 

人間にはイレギュラー要素がある。

 

「皆に好かれてる人が嫌い」という人は一定数はいるから、絶対に全ての人に好かれるのは絶対的に不可能なのだ。

 

だからこういった相談にも、嫌われないように生きるのだけはやめよう、と伝える。

 

 

もっと上手くなります、と返事があったが、そこにも注意はしておいた。

 

その人のため、これからお店に来る人のために上手くなるのはいい。

 

最高の選択だ。

 

しかし「嫌われないように上手くなる」のは最低の選択だと思う。

 

自分がやりたいことは履き違えてはならない。

 

自分が、その道のプロになると決めた時から、すでに批判とは隣り合わせにある。

 

その批判を消すために上手くなるのでは、何を求めているのかちゃんちゃら分からない。

 

自分の「嫌われたくない」という承認欲求のために、技術を求めるのは不誠実にほかならない。

 

相手は批判だったのかも、本当に突き詰めてみないと分からない。

 

とにかく今の自分を知る機会としてはうってつけだったんじゃないか、ということを話した。

 

自分の軽く発した一言が誰かの自身をそぎ落とすことなんて、多々ある話だ。

 

だから自分の発言も気をつけて行っていかなければならない。

 

だが、そこで臆病になって何もできないというんなら、その夢はそこまでの夢だ。

 

自分と、自分の夢とか、やりたいことに対して誠実に生きようと思ったら、正直なところ人に嫌われることなんて、何も怖くないし、痛くも痒くもない。

 

人に嫌われるのが怖い時は、そこをしっかりと見据えていこう。

 

一度、立ち止まってみるのも大事だ。

 

俺も自分自身、これからしっかり生きていくために、自分を見返す機会としてとてもよかったと思える相談だった。