某リサイクルショップを辞めた話

ブラック会社の定義ってのはたくさんある。

 

もちろんパワハラモラハラ、セクハラなんかのハラスメント系も含め、勤務時間が長すぎるとか、その割に給料も安いとか。

 

ブラックとまではいかないが、働く側にとって融通がきかないこともある意味グレーゾーンだと思う。

 

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少し前に、上の内容の記事を書いた。

 

ここの職場は圧倒的にブラックだったし、思い出すのも憚られるほどだ。

 

だがしかし、人間関係や職務の内容や、過度な期待ですらブラックの要因にはなり得る。

 

そんなふうに思ったのが、この「某リサイクルショップ」で働いていた時だった。

 

 

この店で働き始めた理由は「オープニングスタッフ」を経験したことがない、ということからだった。

 

一昨年の10月くらいの募集に滑り込み、何とか即日採用の電話をもらうことができた。

 

この時らへんの俺は今と違って「落ち着く」ということを考えていた。

 

実際に髪の色もこの時らへんはかなり黒に近かったし、そんなに長くもなかった。

 

なので、普段探している「髪色自由」というもので仕事を探す必要はなくなった。

 

オープニングスタッフのいいところといえば、先輩や後輩といった上下関係が極端に少ないことがメリットであるように思う。

 

たまたま地元にオープンするという求人広告を見つけ、もともと別の店舗に行くのも好きだったから、きっと好きな仕事だと思い込んだ。

 

やっぱり接客業が好きだから、接客業で生きていきたいと思っていた。

 

同僚にも、上司にも、恵まれたと思った。

 

語気が荒い人もいなかったし、仲良くやれていたと思う。

 

オープンまでの準備期間は、かなりの体力仕事だったが、体の疲れくらいはどうにかして誤魔化せた。

 

今となってはなんの自慢にもならないことだが、俺は接客業では褒められることが多い。

 

単純にノリがいいというか、接客は丁寧に心がけてるし、対応を褒められることも多い。

 

仕事を覚えるスピードが早い、というのもあるが、それを新人に教えるのも上手な方だと思うし、怒ることもない。

 

新人にも慕われることが多いし、単純にバイトリーダーのような立場を任されることも多い。

 

それでいて、上司の言うことは忠実にこなす。

 

どう見ても理想のスタッフだ。

 

違和感に気づき始めたのは、オープンしてから2ヶ月ほどだったから、入社して3ヶ月くらいの頃だったように記憶している。

 

ちょうどその頃、持ち込まれた品の査定業務を教えられ始めた。

 

別に査定なんかやりたくなかった。

 

なんでかって「接客」の時間が圧倒的に減るから。

 

だけど、上司の命令には忠実。

 

逆らえないのは忠実なのではなく、弱さだということに気づかないフリをしていた。

 

 

その店舗では、自発的に仕事をしない人が多かった。

 

特に接客業で初めての場合、電話の応対業務をやりたくない人は多い。

 

だが実際に、電話の応対業務に関しては言葉遣いをしっかりした上で、何度も電話をとらないと覚えれない。

 

それを再三言ってるのに、やはり皆はとりたがらなかった。

 

いや、とってくれる人もいるが、そういう人はだいたい仕事ができるので、別の業務を振られていて近くにはいない。

 

電話じゃないにしても、レジも、通常の接客もやりたがらないスタッフとシフトがかぶるとやりにくくて仕方なかった。

 

あるとき、それでとあるクレームが入る。

 

原因は俺ではなかったが、俺もそのことが起こりえないか危惧していたことだった。

 

 

俺と仲の良いスタッフで、同じくらい仕事ができる奴(以下、R)がいた。

 

Rが他のスタッフの尻拭いをしていたことにより、査定の終了を客に伝え損ねていた。

 

それがクレームになり、本社にまで連絡がいった。

 

実際に責任はRにあるとは思う。

 

きちんと最後まで確認をしていなかったのは、Rの責任だ。

 

だが上司や、その会社のお偉い方は、一方的にRを責めるだけだった。

 

その日のシフトに、俺は休みでいなかったが、他に出勤していたスタッフを見るとさすがにひいた。

 

ほとんどが新人で構成されていたからだ。

 

Rは言い訳をしなかったが、実際にその新人のために使った時間でミスが起こり得ることは容易に把握できた。

 

結局店のほとんどをRが回していたことになる。

 

できないことはなさそうだが、ミスが起こる可能性は充分にあった。

 

悪いのはRだが、そんなシフトしか組めないような環境にしている上にも責任はあると思った。

 

次の日から、いじめとまではいかないが、社員からのRへの圧力が強くなった。

 

俺は何も言えず…というようなことはなく、Rと一緒に行動するようにした。

 

その時から、その会社に愛想が尽きはじめていくことになる。

 

 

自分たちの落ち度は認めず、その反省もせずに都合のいい時だけ擦り寄るくせに、頑張りは評価されない。

 

そんな社会の縮図を知ってしまった。

 

本当に知らなかった。

 

頑張りは認められると思ってたし、頑張った分だけ何かが返ってくると思っていた。

 

でも実際に、会社は何も俺らにしてくれなかったし、スタッフルームに貼ってある会社の理念には「スタッフは大事」なんて書いてあるが、そんなこと思ってすらない。

 

ブラック認定されたくないだけの上辺だけの対策。

 

そして、社員同士の話し合いという名の一方的な差別も目立ってきた。

 

入ってしばらく働き方を見て「使えない」と判断すると仕事もほとんど教えない。

 

そのしわ寄せは、結局ほかの業務をさせられてる俺やRにくるのだった。

 

俺もRも、そして仕事が比較的できるスタッフも、このことには気づいていたし辞めたいと他のスタッフも思っていたのかもしれない。

 

そんなある日、Rが出勤と同時に俺に耳打ちしてきた。

 

「すまん。昨日の夜、辞めるって言ってきた。」

 

Rは芯が強い。

 

俺みたいに辞めると言えない人間とは違う。

 

でも辞めたい気持ちは同じだった。

 

その日の夜中を待ち、俺も店長に「明日、お時間もらえませんか?」とLINEして、その文の中に「辞めようと思います」と付け加えておいた。

 

今までの俺だったらきっと逃げていたけど、このままだとこの会社に飼い殺されると思った。

 

意外に辞める話はスムーズに決まった。

 

しかし、フルタイムで正月もクリスマスも出勤していたRと俺がいなくなるのは相当な痛手になるのが予想できた。

 

この時に思っていた言葉は、

 

例え何人辞めても会社は回り続ける

 

というもので、辞めてもいいんだ、と自分に強く言い聞かせた。

 

伝えてから、一ヶ月周りの目は少し痛いかもしれないけど。

 

 

その日から社員の俺とRに対する扱いが変わり始める。

 

近くにいるだけで、ため息や「きつい」などの言葉を延々という。

 

些細な嫌がらせだったのかもしれない。

 

Rは露骨に腹を立てていたが、当時メンタルの弱かった俺は「悪いことしたかな?」なんて気になっていた。

 

こっちだって、辞めたくて働き始めたわけじゃない。

 

俺だって、Rだって真剣に働こうとした。

 

それだけは絶対に間違いなかった。

 

辞めようと思われる会社にも問題はある

 

そう思うことで何とか誤魔化した。

 

きっと何かを辞めることに関しては、人はネガティブでマイナスイメージが付きまとう。

 

それが社会的に恥ずかしいとか、人間関係を悪くするかも、とかよくわからない防衛本能を働かせる。

 

単純に考えすぎだ。

 

別に死ななきゃ大丈夫だし、そんな人間関係なんてクソくらえだ。

 

 

 

会社の経営理念やら、そういうのを誇らしげに掲げてくるところには何らかの影がある。

 

実際に社会は、下を利用する形で回っている。

 

それは正義とか正しいとか、間違いとか悪じゃなくて、そういうものなんだ。

 

だから異論を唱えるとか、真っ向からぶつかるとか、そういうのが馬鹿らしい。

 

嫌なら、合わないとわかったら、辞めてしまえばいいだけなんだ。

 

そういう事実を隠して「スタッフが大事」なんてことを主張する、でも実際にスタッフの身に何かが起きた時に会社は助けちゃくれない。

 

特にそういうことを掲げているところがそうだったから。

 

現実を知れた、そう思った。

 

社会は、会社は俺らに優しくなんてない。

 

もっと人は自分のことだけ考えてもいいはずなんだ。

 

俺はこの仕事を辞めて本当に良かったと思った。

 

 

これはちょうど、今から一年ほど前のお話。

お疲れ様、平成。よろしく、令和。

「もうこっちの家の方が長くなったんだよ」

 

61歳を過ぎた頃、母がぼんやり言っていた言葉。

 

30歳で今の家…つまり俺の実家に嫁いできた母親が、もともとの母方の家よりもこっちで生活した期間が長くなった、ということだ。

 

平成が終わる瞬間にぼんやりと、この時の言葉を思い出していた。

 

俺は平成という中で30年と少し生きた。

 

生まれたのは昭和だけど、圧倒的に平成の方が長い。

 

これから先、もしも俺の命が30年以上続く時まで、俺は平成の中で生きた年数が長くなる。

 

いつか令和の方が長くなる時がくるのだろうか?そんな未来に思いを馳せる。

 

 

人生は年齢の分母が大きいほど、思い出が薄くなると聞いたことがある。

 

小学校や、中学校の時の思い出が強く残り続けるのは、このためらしい。

 

確かに1(年間)/30(自分の年齢)とした場合、その思い出の小ささが分かると思う。

 

そして、1/15の中学生の時の思い出が、色濃いのも頷ける。

 

俺は、その中を平成で生きた。

 

そして、これから令和の中で命を刻んでいく。

 

 

何を区切りにして、大人になったと言えるのかは今もわからないままだ。

 

子供の頃、親の機嫌で理不尽に怒られた時「大人も子供の延長戦なんだなあ」と思ったことが、自分にも当てはまる。

 

そんな自分で悪くなったことといえば、中途半端に常識にとらわれるようになったことと、中途半端な知識をつけてしまったこと。

 

子供の頃から、なんだかんだのらりくらり生きてこれたせいで、逃げぐせのようなものがこびりついて離れない。

 

子供のように遊び続けることを、社会は理解してくれなかった。

 

だから平成の中で、俺は至って真面目に、社会の求める自分像になろうとしていた。

 

今では反吐が出るほどの思考だが、あの時はそれが正しいと信じて疑わなかったし、みんながそうだから、というだけの理由で自分を押し殺していた。

 

ちょうど去年の今頃、自分の見てきた世界を変えようと思った。

 

 

平成が令和になることに対して、そんなに興味を持っていない。

 

別に元号なんて変わるものだし、天皇の命は永続ではない。

 

ただ、表すものが変わったってだけで、人の道や、人の命は変わらない。

 

しかし今までの自分を変えるというための、ほんの少しのきっかけにはできるのかもしれない。

 

人は自分にできないことを、何かにひっかけて考えたがる。

 

俺だって、そう。

 

でも令和になったからって、新しい自分が待っているとか、新しい自分に生まれ変われるなんてことは、断じてない。

 

いつもいつも先延ばしにしてしまう悪い癖。

 

思ったらやらなければ。

 

それを続けなければ。

 

 

歳を重ねるにつれて、人間関係は希薄になっていく。

 

少し前にこんな記事を書いた。

 

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この映画を観て、青春時代を思い出した。

 

俺の青春はちょうど平成のど真ん中だった。

 

その頃の友人たちとは、今はもうほとんど連絡をとっていない。

 

子供の頃は、永遠に仲良しでいれるなんて思っていた。

 

しかし、価値観や生き方や、現状は変わる。

 

みんな家庭を持ち始めるし、仕事をする。

 

親だって永遠には生きない。

 

自分たちより先に死んでしまう。

 

歳を重ねると、生きていくってだけで大忙しで、自分のことだけでも精一杯だ。

 

言い方は悪くなるかもしれないが、そんな生活の中でふるいにかかって残った友人が価値観の合う友達と言うんだろう。

 

平成が終わる頃、周りにいる仲間は昔と全然違う顔ぶれだった。

 

自分の価値観や生き方が変わったんだと思う。

 

だけど、令和になっても俺は俺のままだ。

 

平成の時と変わらない自分がそこにいるだけ。

 

だからこそ、令和こそは違う自分を目指していく。

 

平成を超えるほどの令和にできるだろうか。

 

これから、年齢の分母も大きくなっていく。

 

それでももっともっと濃くなるようにして生きていきたい。

 

平成は、最高の仲間たちを得た。

 

この平成に負けないくらいに、濃い令和にしていく。

 

していくしかない。

ブラックな焼肉屋のバイトをばっくれた話

この世の中には、いろんなブラックな仕事がある。

 

何を以てして、ブラック会社や、ブラック企業と言うのかは人それぞれだが、真面目すぎる人はつけこまれ、搾取される一方である。

その搾取はまた、いろんな形でもある。

 

お金だったり、時間だったり、人間味だったり。

 

とりわけ、そういうところで働いてしまったことが何度かあるから、自分のためにも書き記しておこうと思う。

 

あれは今から、5年ほど前になる。

 

当時、福岡に住むことになった俺は、バイトを探していた。

俺のバイトの探し方は少し独特で、提示する条件は「髪型自由」のみ。

 

髪を伸ばしたり、髪を染めたりすることが普通の俺には、髪型で俺のことを判断されたくない、という謎のプライドもあった。

 

そういう条件でしか探したことがなかったので、この時も例に漏れず、この探し方をした。

 

面接してくれるところは、すぐに見つかることになる。

面接に行って、いつものように愛想を振りまく。

バイトの面接で落とされたことはほとんどない。

 

フルタイムでも大丈夫、シフトも基本的に言いなり、きっと向こうからしても好条件の人間だったと思う。

 

面接の日の夜に合否の電話はあった。

採用だった。

しかし、向こうの提案してきたものは

「系列の店が(俺の)住んでるとこの近くにあって、そこの店長が人手を欲しがってるんだけど…」というものだった。

 

自分の家からも近くなるんなら、最高だ。

二つ返事でOKしたが、この時の判断が大きなミスになるとは、この時の俺は知る由もなかった。

 

ちなみにこの時が初めての飲食店でのバイトになる。

 

出勤初日、店について少し後悔した。

何か、何となくだけど、体育会系の感じがしたからだ。

これはもう感覚としか言えないが。

 

店に入り、スタッフに挨拶をする。

店長が出てきて軽い挨拶の後に、特に説明もないまま、「○○席のお客様が呼んでるから行ってきて」と言われた。

何となく、嫌な感じは続いていた。

 

初日から、よくわからないことが多かった。

仕事の内容じゃない。

お客に呼ばれ、「少々お待ちください」と告げてカウンター内に戻ると店長に「勝手なことをするな」と怒られたことだ。

何かよくわからなかった。

 

その日は特に忙しかったらしく、俺の時間もあっという間に過ぎた。

休憩の時間になって、店長がメニューのコピーを渡してきながら

「これ、次の出勤までに商品名と略称も覚えてきてね。みんなそれやってるから、できないとか、覚えてないは絶対になしで。」

と言った。

 

メニューはそれなりに多い量だった。

そして次の出勤は翌日だった。

忙しかったのもあって、通常より遅く帰ることになった。

 

その日はほとんど寝れなかった。

渡されたメニューを覚えなきゃいけない。

睡眠もそこそこに、頭に叩き込む。

必死でそのお店のために頑張ろうとしていた。

他の人に迷惑をかけないように…。

それだけを考えていた。

 

翌日、睡眠を削った甲斐もあって、ほぼほぼ覚えていた。

幸い覚えてないところは客が注文しなかった。

運がいいと思った。

その日言われたのは、一週間内にホルモンの部位とその名称を覚えてくることだった。

気が遠くなるようだった。

怒られる時は怒鳴られるし、客の前だとしてもお構いなしだ。

 

一週間経つ頃に、お店の名前で検索したことがある。

客からお店へのコメントには「スタッフを怒鳴っている時があり、気分が悪い」といくつか書かれていた。

 

その投稿は一ヶ月よりも前のことだから、俺のことじゃなかった。

そして、俺以外のスタッフは一番短くても半年は勤めている。

俺以外みんな仕事ができる。

俺じゃない誰かが同じように頑張っていた、そして諦めていったのだと何となく考えていた。

 

相も変わらず、店長と副店長は物言いがキツい。

叱るではない、怒鳴るからだ。

理不尽だと思うことは多々あった。

 

お通しを盛り付ける際、それにもお金をもらっているんだからと多めに盛り付ける店長の言いつけを守っていると

お通しがなんでそんなに多いんだと怒る副店長。

何をしても見つかると怒られるのだった。

 

二週間も経つ頃、少しずつ辛くなってきているのが分かった。

職場に行っても人格否定される。

友達や交友関係をコケにされても、笑って誤魔化すしかできない自分。

自分の弱さが何より嫌だった。

 

店の時間帯もあり、終わるのは3時〜5時だった。

家に帰って風呂に入って、布団に入る。

その頃には朝日が差していた。

朝日を見るのが嫌になった。

 

薄いカーテン越しに差し込む日差しが何より苦痛だった。

寝たら、また夕方になって、そしたら出勤する時間になって、罵られるためにバイト先に行く。

いっそ、朝日なんて昇らなきゃいいと思っていた。

 

仕事に行っても早く終わることだけを願っていた。

次の休み、次の休み…それだけを呪文のように唱える。

 

一ヶ月経っても俺はポンコツのようだった。

店長にも副店長にもずっと言われていた。

自分にとってはいいことをやっているようでも、店長たちは気に入らないようだった。

だからひたすら従った。

他の人はなんてすごいんだろう。

怒られてすらない。

笑顔が分からない。

笑うときに心から笑えない。

 

この当時、仲のいい友達に仕事を常にばっくれて辞める、というふざけた奴がいた。

俺は彼を昔からディスっていたし、彼もそれをネタにしていた。

「連絡なしで仕事辞めるとか仕事行かないとか、人間的にどうなの?」

そんなことを彼に何度も言っていた。

 

俺はそういう生き方しかできないから、お前が羨ましいよ。お前の真面目って立派だと思うよ。

 

彼は俺にそう言っていた。

 

 

三週間が経つ頃、新人が入ってきた。

厳密に言うと、他にもそれまでに二人くらい来てたが、二日目で辞めたやつと、三日目でばっくれたやつだったからノーカウント。

新人が入るたびに思っていたのは「標的が変わるかも」というものだった。

俺じゃない標的に移ってほしかった。

 

一週間ほどでその新人と一緒に公園で酒を飲んだが「ひどいですね。早く辞めたいです。」とぼやいていた。

 

一ヶ月も前に辞めるを伝えるなんて、気が遠くなるような誓約書があったのもあり、この時はそれを愚直にも守ろうと思い続けていた。

 

標的は移ることはなかった。

俺とその新人二人にだけ怒号と罵声が飛んでくる。

いいストレス発散だったのかもしれない。

 

一ヶ月と、一週間が経った頃、出勤すると店長と副店長がソワソワしていた。

今日は急に社長が来るから、掃除とか細かいところも徹底していなければいけない、そういうことだった。

 

その日は何があったかわからないが、いつも朝方まで客がいることが多い店なのに、深夜1時には完全に客足が途絶えた。

一時間ほど経つと、見慣れない来訪者。

気の良さそうなおじさんだったが、何となく社長だとわかった。

 

いつも高圧的な態度の店長と副店長がペコペコしている。

いい気味だ、そう思っていた。

俺はその時洗い物を任されていたので、ずっと食器を洗っていた。

店の奥にたまに目をやると、社長に怒られている二人の青ざめた顔が見れた。

実に滑稽に見えたし、思わず笑いが出た。

 

…事態は一変した。

その社長とやらは、急に俺の方に歩み寄ってきた。

「だいたい何だ、こいつは!仕事をしてるというのに、汗の一つもかいてないじゃないか!」

店長と副店長は、平謝り。

頭の中で「あー、これでとばっちりきて、後で二人に怒られたらやだなあ」とか思っていた。

 

その直後、思いっきり胸ぐらを掴まれた。

「お前は仕事を舐めてるのか?!○すぞ!!」

何となく、泣きたかったが、それよりも感情が飛んだ。

ひとしきり俺に怒鳴ったあと、社長は店のドアを強く閉めて出て行った。

 

副店長はニヤニヤしながら、「お前とばっちりやったなあw」とか言ってくる。

きっと俺も顔面蒼白だったんだと思う。

そのままで突っ立っているのも苦しかったので、洗い物をしようとすると、店長が帰っていいという。

自分の決めてたところまでやりたかったから少し洗って帰ります、と伝えると「言うこと聞けや!」と謎の関西弁で怒られた。

 

帰り道、自転車を漕ぎながら泣いた。

自分がみっともなかった。

誰よりも頑張っているつもりなのに、胸ぐらまで掴まれて仕事をしていないと罵られる。

生きている意味がわからなかったし、存在している理由がわからなかった。

あんなに耐えて耐えて頑張っているのに、理解してくれる人はいない。

 

次の日も出勤した。

相変わらず、店長も副店長も威圧的だ。

いつもどおり働いていると、店長から呼び出された。

「お前、今のままだと使い物にならないから。明日から今より厳しくいくから覚悟しとけ」

 

その言葉を聞いて、糸が切れた気がした。

「頑張る」という言葉の意味がわからなくなったからだ。

数時間後、仕事が終わり、いつも仕事をばっくれて辞める友人を家に呼び出した。

 

俺は何となく、決めていた。

今まで犯したことのないタブー。

「ばっくれ」をやろうと。

 

それまで仕事をばっくれるやつなんて人間のクズだと思っていた。

だからどんなに嫌な仕事でも、半年は我慢して働いてきたし、頑張ってきたつもりだった。

そんな俺が、ついにその領域まで踏み込もうとしている。

だが、この時ばかりは思った。

「このままここにいたら死ぬ」

その防衛本能がそうさせてしまったのかもしれない。

 

出勤の時間になったら携帯の電源を切る、友人はそう言った。

そして、出来るだけ長く電源をつけない。

それがコツ、ということだった。

今まで見下していた人間がとても強く輝いて見えた。

 

友人の仕事の少し前まで一緒にゲームをした。

くだらない話もした。

一緒に酒も飲んだ。

この時、友人は「たぶんこいつはばっくれることを選ばない」と思っていたらしい。

それほどまでに俺は真面目に生きてきたのだろう。

 

二日後、携帯の電源をつける。

店長から、鬼のような数の着信と、メールが届いていた。

二日も経つと何となく腹は決まっていた。

留守電は聞かずに削除した。

メールは読んだ。

その内容も本当に低レベルだな、と思えるほど幼稚な内容だった。

 

前半の方は「今なら許してやる」とか「もう逃げるのか?」とか。

だんだん言葉も荒くなってきて「○すぞ」とか「お前みたいなやつはどこに行っても成功しない」とか「お前はただのクズ野郎」みたいのに変わっていった。

 

「店に来て土下座しないと給料も払わない」とか言われて、一ヶ月分の給料も惜しかったけど、土下座はしたくないからシカトした。

結局、給料は払われなかった。

ちなみに次の仕事で店長になるくらいまでいったから、どこに行っても成功しないとかは、あの店長の小さな価値観の中だけの話だと実証できた。

 

身近に、すぐに仕事をばっくれるような知り合いがいたのは大きかったんだと思う。

じゃないと、日本人は真面目過ぎて「仕事を辞める=悪」みたいに思ってる人が多い。

小さい頃から「他人に迷惑をかけてはいけません」という学校教育を愚直に守りすぎた結果、自分が病んだり壊れたりしてしまう。

 

昔から俺は、それを守り続けてきた。

だから、あの時に友人が「ばっくれることを選べない」と思っていたことで、この行動に心底驚いていた。

人は優しすぎるから、そのせいでつけこまれ、嫌な仕事を強いられ自分を壊していく。

自分を誤魔化しながら生きた先に何があるんだろう、そんなふうに思い始めたのはこの職場があったからだ。

 

ブラックな仕事はまだまだたくさんある。

その職場で満足できて、それでも自分を貫いていける人はいいと思うし、尊敬する。

 

でも、それで生きれない人もたくさんいる。

自分に素直に生きていいのに、それをやっちゃいけないかのように言われる。

もっと自由に生きていい、これからもそれを発信したい。

 

ちなみにこの件がきっかけで、飲食店では絶対に働かないと決めた。

俺の人生を大きく変えた名作「ちょっと今から仕事辞めてくる」を改めて観てみた(ネタバレ注意)

この映画は公開されて三日後に観に行った。

その時は夜職をやってて、お客さんの食事に付き合ったあと、ブラブラしてる時に映画館の前を通って「気になってるから観たい」と提案したらお客さんもノリノリだったから勢いに任せて観た。

そもそも当時はあまり福士蒼汰が好きじゃなくて、工藤阿須加もそんなに知らなかった。

ただなぜこの映画が気になっていたのかというと、やはりタイトルだ。

この時、俺は仕事を辞めたくて仕方なかった。

しかし仕事を辞めることを、どの仕事でも言えない俺は、いつも辞めようと考えると病む。

このタイトルを見て「そんな軽いノリで辞めるんだ」みたいな感じだったと思う。

実際内容はそんな軽いノリで辞めるものじゃないんだけど。

 

一言で言うと、映画館で泣いた。

隣に座ってたお客さんは泣かなかった。というか笑われた。

でもあの時悩んでいた俺は、大きく人生が変わったと思った。

人生というより、生き方。

そしてその思考を変えようと思った。

「生きるために働く」とか「働くために生きる」じゃなくて、「自分のため」に働きたいと思った。

 

冒頭から、ブラック会社の全貌のような、絵に書いたような会社が出てくる。

上司役は吉田鋼太郎

この人の演技がまた怪演すぎて、別の意味で涙を誘う。

普通に怖すぎるからだ。

 

ラジオ体操させたり、社訓を大声で復唱させる文化とかは、まだブラック会社に残っていると聞く。

あと、人格否定とか。

これはまあ簡単に言うと洗脳みたいな。

自分で判断するという選択肢を潰すとかの感じか。

自尊心を無くさせて、上の言いなりになるマシーン製造してるようなもん。

 

ブラックじゃないとは言え、復唱させたりするお店が多いってのは今までたくさんバイトしてきたから分かる。

でも、あれも結局はその思考を植え付けて、「個人」じゃなく「お店」というものを優先させるもの。

悪く言うのであれば個人を社会とか会社の歯車化を行ってる。

もちろん、上でも言った通り、それを行う会社がすべてブラックとは言えない。

しかし、それにどうしても合わない人間というのは一定数いるわけだ。

まさにそれが俺なんだけど。

 

悪く言わないのであれば、それに適応できる人でさえあれば働きやすいし、その選択も個人の自由なところではある。

しかし、やはり日本の社会は仕事というものに頭が埋め尽くされているし、仕事のために人生を作り上げてきたようなものだ。

それを悪いこととは言わない。

ただ、人格否定や個人を尊重してくれないような職場からは正直早く離脱したほうがいい。

 

この映画からは本当に大きなものを学べたと思う。

仕事、生き方というものへの概念、家族の大事さ、友達の大事さ。

大事なものが詰まりに詰まっている作品と言える。

 

残業終わりに「生きること」を放棄しようと考えたたタカシは、駅の線路に落下しかける。

間一髪で、小学生時代の同級生のヤマモトと名乗る男に救われて混乱するが、飲みに行こうと提案され居酒屋へ。

内容もう知ってたから、特筆することはないと思ってたけど、この居酒屋のシーンがすごく好き。

何で助けようとしたのか、ってのも後半分かるけど、居酒屋で仲良く昔話してるところとかすごく震える。まあそれもヤマモトの嘘なんだけど。

 

休みの日に外に連れ出されて、スーパーのワゴンで坂道を下るシーンなんて、子供の頃にやったいたずらと楽しさの延長戦にあるようなやつで、そこもすごくいい。

子供の頃は善悪とか、何が悪いことなのかの区別もないから、平気で怒られるようなことやっちゃうんだけど、大人になるにつれて「これは怒られる」と思ってしまうといたずら心や好奇心はだんだんと息を潜めていく。

大の大人が子供に戻ったら怒られるシーンという感じなんだけど、子供の頃の気持ちって忘れちゃうんだな、と思わされる。

 

その後しばらくして、ヤマモトが同級生じゃないと知ったタカシは、何か騙されてるんじゃないかと疑って怒るんだけど(実際に本名も知らなかったわけだし)、そこでヤマモトが

「始まりは勘違いだったけど友達になれた。もしも同級生じゃなかったら俺とは友達になれなかったか?」

と聞くんだけど、確かに子供の頃って、どこか外に遊びに行けば誰彼構わず好奇心のままに質問したりして、友達になってたはずなんだけど、大人になるにつれてそれを忘れていく。

忘れる、というよりは臆病になってしまって、それに慣れてしまう。

「知らない人にはついていかない」というような言葉は、子供を守るためには必要なことだが、それを愚直に守り続けてきた場合、警戒心まみれになるのかもしれない。(実際に世間が昔より物騒になったのも原因なんだろうけど。)

 

生まれつき「人見知り」だったわけじゃない。

ある一定の時期に「私は人見知りだ」と言い始めて、自分の限界を定めてしまう。

それから、他人は他人に興味を抱かなくなっていく。

だからこの映画で、誰にでもフレンドリーに接することができるヤマモトという人間像は、ある意味俺の理想である。

 

ヤマモトのおかげで、いい感じに吹っ切れたタカシは仕事で成功…というわけにもいかず、上司に罵られ、土下座までさせられてしまう。

それで結構病んでしまう真面目さが、冒頭で彼を死に追い込もうとしたものだ。

仕事のミスで上司に罵られて、病んでいる時にたまたまヤマモトに会って飲みに誘われて「飲みたくないし、飲んじゃいけない気もする」と返事をするが、結局ヤマモトはビールを二つ注文する。

常識に縛られていないからこそできることなのだが、飲んじゃいけないと誰が決めたのだろうか。

勝手に自分がそんなときは飲んじゃいけない、飲まないほうが真面目と思っただけなんじゃないか。

そして、世の中はそれで回っている。

周りの考えた常識に縛られている。

誰が作ったか分からない常識に。

 

一緒にサッカーしてるシーンもなかなか印象的で、自由人のヤマモトに対して「仕事を辞めることは大変なんだよ」とタカシは言う。

「せっかく正社員になったんだから」「次が見つかるなんか分からないから」とそれっぽい理由をつけて。

しかしヤマモトは「正社員がなんでいいの?」「仕事を辞めることに比べたら何の方が簡単なの?」「死ぬことの方が簡単か?」と返す。

これは俺が前から主張してるようなことなんだけど、元を辿ればこの映画のこのシーンから来てるのかもしれない。

サッカーでも移籍した途端に活躍する選手なんてたくさんいるし、監督とかチームメイトとの相性とかもある、とヤマモトは言うが、これは自分の輝ける場所は他にもたくさんあるはずだというメッセージのように思う。

だからそこに固執して悩んでる場合じゃない、と。

この時タカシには全然届かないんだけど、これがまさに日本人の思考を体現してるキャラだから仕方ない。

 

タカシは仕事で嵌められてて、それで上司にまた大目玉をくらい完全に死を決意する。

飛び降りという方法で。

この時に間一髪ヤマモトが助けに来て「何でここが分かったんだ?」と不思議そうにタカシが聞くが、ラストらへんでその理由がわかったときが個人的に一番泣ける。

それは置いといて、飛び降りようとしてるタカシに「人生は誰のためにあると思う?」と聞く。

自分のため…と返事をするタカシに「それだけじゃない、自分を大切に思ってる人のため」と返す。

この時のやりとりで、タカシは久しぶりに実家に久しぶりに一度帰郷するんだけど、そこからの家族のやりとりがまたいい内容。

 

「仕事を辞めたいって言ったらどう思う?」と親に聞いて、怒られると思っていたら親が理解者だったことを知る。

 

会社は世界にひとつじゃないんだから。

若いんだから、今のうちにいくらでも失敗すればいい。

人生、生きてさえいたら案外何とかなる。

こう言った両親だったが、そのあとに父親が「お母さんはどうでもいい用事考えてお前の声聞こうとしてるんだぞ」って言った時に、もう涙腺崩壊。

むしろこれを書きながら思い出して、また涙腺崩壊。

親って何だかんだ、子供のことを心配してくれてる。

それはきっと血のつながり、なんて簡単な言葉じゃ表せないところで繋がってるからだと思う。

 

今までのこと、全部当たり前だと思ってた。

これはタカシが言った言葉だが、確かに今ある人生や恩恵を当たり前だと人は思い込んでいる。

思い込むというより、そういうふうに受け取ってしまう。

だけど、周りが自分のためにどれだけ想ってくれているのかを、もっと理解しないといけない。

決意が決まったタカシは朝からヤマモトを呼び出して「ちょっと今から仕事辞めてくる」と宣言して上司に辞めることを伝えに行く。

ここでの上司の暴言も、結構えげつない。

吉田鋼太郎の怪演がここでもヤバいが、こっち側としてもだいぶ清々しくなってるから、気持ちよく見れる。

 

最近の若いやつはすぐ諦める、何をやってもどこに行っても続かない、全部放り出して逃げるだけ、甘いんだよ

お前みたいな奴に次の仕事が簡単に見つかると思ったら大間違いだ

なんて罵詈雑言のオンパレード。

でも開き直ってる人間は強いから「簡単じゃなくてもいいんです」って返す。

「自分に素直に生きていきたい」という、その決意のままそこに来てるんだから強い。

自分が何をやりたいか分からないまま仕事を選んだ、というセリフがあったけど、高校を卒業する18歳の段階で進路を決めさせようとする日本人の思考って昔から本当によく分からない。

 

そもそも日本人は相手の期待に答えようとしすぎなのかもしれない。

一回YESと答えたら相手もつけ上がって、何回も同じようなこと頼んでくるような社会だ。

そのせいで、自分が病んで苦しんでたら本当にしょうもない。

そのせいで、命を絶とうとしてたなら本当にどうかしてる。

特にブラック会社ってのは人の優しさにつけこんでくる。

それに搾取されているのが、弱者。

弱者であることを認めないことが、まさに思考停止である。(就職してるから周りから馬鹿にされないですむ、みたいな一種の逃げ)

堀江貴文は「ブラック企業がなくならないのは、そこを皆が辞めようとしないから」と言っていた。

皆が辞めたら会社が回らなくなるから時給を増やすか、何らかの対策をとらなきゃいけないのに辞めないでいるから賃金も低いまま。

それで文句を言う方もナンセンスだ。

 

綺麗事で生きていけない、そんなことを俺も思っていたが別の考え方も何となく出てきた。

これは綺麗事で生きていけないという現実ではなく、生きていくのに綺麗事はいらない、ということなのかもしれない。

どのみち生きていけるのだから、綺麗事ではなく全て現実なのだ。

 

自分の生き方の路線や、夢なんかって出会った人に触れて、感動したり、衝撃を受けたりして出来上がっていく。

自分の道を、自分だけで分かったようなつもりになっていると、やりたくない仕事に繋がるのかもしれない。

俺は今まで仕事を接客業ばかりで選んできたけど、まさにそれだ。

勝手に接客業が好きと思い込んでいただけで、実際はもっと深掘りしてみるべきだった。

働くについて、考えずにいることこそがこれからの時代遅れをとっていく。

もっと自分のことを知って、当たり前と思っていることこそ、大事にしなきゃいけない。

 

この映画のヤマモトのようになりたい。

まさに彼は誰かにとってのヒーローだった。

もっと清々しく笑っていけるようになりたい。

 

考えさせられることの多い映画で、特につまらない部分もないはず。

人間の自由さに気づかせてくれる、素晴らしい映画だった。

リメイクとリブートの違いが気になっただけでここまで話す?!

最近、TSUTAYAで映画のDVDを借りることが多い。

つい先日、たまたま目についてしまった言葉「リブート」。(すごい今更なんだろうけど…汗)

「リメイク」ではなく…?とその時、気になったので調べてみた。

 

元々はPCの用語で、「再起動」を意味する言葉であるらしい。

re(再び):boot(起動)ってことね。

結構「re:」がつく言葉は昔から好き。

中二感があって心が疼く。

re:birthとか、なんかまさに中二病全開だよね。

ちなみにリセット(re:set)だと不具合によって、強制終了してからの再起動を指すらしい。

 

俺自身生きてきた中で、何度か体験したことがあるが、

それまで知らなかった言葉を知った途端に、目につく、耳につくようになったことはないだろうか?

もしくは知った途端に、その言葉を使うことが多くなったとか。

もちろん意識したことがなかった範囲が自分にあった、という理由もあると思う。

人間、自分の思考の範囲外のことはあまり見えていないから。

でもこういうことが起こる中で、たまに不思議としか思えないこともある。

まさに俺にとって、「リブート」という言葉を初めて知った日の同じ時間帯に、その言葉を仲間に使われたのだから。

 

映画ではリメイクという言葉をよく耳にしてきた。

単発作品などに多く、エンディングもリメイク元の作品に沿うことが多いそうだ。

対して、リブートという言葉も前より使われることが多くなってきた。

代表的に分かりやすい例を言うなら、新劇場版エヴァンゲリオン

続編になりやすく、かつエンディングも大元の作品に全然沿わない。

つまり言うならば、土台が同じ上での再構築。

となると、アメイジングスパイダーマンとかもそうなるのかな?

 

単純に言葉を調べてみて思ったのは、リセットと違うところは、この再起動が「自らの意思・選択」によって行われるということ。

リセットすることは受動的で、リブートするのは能動的。

つまり、俺が今までリブートという言葉を知らなかったことが、痛い。

言葉には魂が宿る。

あくまで、自分の再起動のタイミングは自分で決めていくことを自覚するべきだった。

 

人生のエンディングなんてどうなるか、いつも人にはわからない。

だから今停滞しているのなら、自分にリブートをかけていかなければならない。

そして、前に立ち上げたコミュニティを、もう一度リブートする。

だからこそ、自分自身がもっと能動的に生きていかなければ。

圧倒的に過去作とクオリティが違う劇場版「名探偵コナン ゼロの執行人」を観た(ネタバレ注意)

最初に断っておく。

俺はとんでもなく金田一少年の事件簿」が好きだということを。

過去からよく比較されることが多い探偵作品「名探偵コナン」とは対照的なものである。

 

ちなみに昔は、コナンが嫌いだった。

理由としては犯人の動機がみみっちいとか、「バーロー」が鼻につく、とかそんな感じ。

金田一少年は対して、十年越しの復讐とか、親の敵とか、恋人の敵とか。

その重さが個人的に好きだったのが金田一で、コナンはなんとなく受け入れられなかった。

 

ところが、今では結構コナンを好きになったこともあり、実は金田一少年の事件簿は自分の中で迷走してる感がある。(今やってるの少年でもなくなったし)

今考えたら、金田一の犯人の動機は重すぎる。

子供向けじゃないレベルなのだが、それが好きだった子供の頃の俺に驚きだ。

 

探偵学園Qを挟んでから、金田一の作画がみんな幼くなったのもちょっとマイナス。

最初の絵のタッチが不気味で好きだった。

caseシリーズくらいが個人的に一番いい。

あと、やっぱり高遠遙一は漫画の好きな敵キャラTOP3に入る。

 

関係ないが、1位フリーザ、2位涅マユリに続くほどのカリスマである。(中尾隆聖に寄ってるのは、たまたまではない。中尾隆聖が大好きなんだ。)

そういや、一回金田一少年の事件簿のアニメで容疑者3人の声優が、中尾隆聖大塚明夫山口勝平だったことあったな。

 

というか、コナンの映画の話からズレた。

前々からコナンの映画に関しては内容を落とすことがないというか、どの映画も面白い。

いつも強い蘭姉ちゃんが乙女化するのはいかがなものかと思うが、それもご愛嬌。(映画のジャイアン現象)

 

さて、ゼロの執行人に話を戻そう。

今まで映画版のコナンもいくつか観てきているが、スケールが違った。

そもそも一番の人気だった怪盗キッドを一気に押しのけた人気キャラ、安室透がメインなのもあるだろう。

公開直後は映画館が大変なことになってたのを、友人に聞いたことがある。

そもそも「名探偵コナンという作品の中だけ」で人気のあった怪盗キッドだが、アニメで言えばそれが通常だ。

アニメの垣根を越えて圧倒的に人気の出るキャラなんてあんまりいない。(パッと浮かぶので言えばドラゴンボール銀魂とか、それでもまだ弱い。)

全然、コナンに興味のなかった層まで取り込んでしまう安室透の人気たるや…。

 

今回の映画は展開が早い。

主人公サイドであるはずの毛利のおっちゃんの逮捕だったり、普段は味方寄りである安室が敵のポジション?と、予告にも完全に力を入れていたが、こんないにサクサク立ち位置をしっかり固定してくれると物語に入りやすい。

しいてこの映画の難点といえば、いつも出てるキャラ以外にモブ顔が多すぎることだと思う。

おっちゃんを庇うために弁護だとか検察って言葉が出てくるのもあって、そういうところの説明もいくつかある。

この映画を観ると、ゲーム「逆転裁判」をやりたくなってくる。

ちなみに余談だが安室透サイドでの古谷徹飛田展男の絡みが聞けるのは、ガンダムファンへのご褒美だと思っていい。

安室透の人気の一つなのかもしれないが、全く揺らがない正義と、そこに私情を挟まないところが清々しい。

そのためにしっかり「責任をとる」男らしさもカッコイイんだと思う。

圧倒的な正義というか、そのために全てを厭わない強さ。

ワンピースで言うところの赤犬のように感じてもしまうけども。

 

この映画ではいつもの名台詞「江戸川コナン…探偵さ」が物語中盤にて聞ける。

そのシーンもなんか結構カッコイイ。

コナンもいつもより輝いて感じる映画だ。

前々から思っていることだけど、コナンという作品の魅力には「子供を演じる」という部分もあることを改めて認識した。

金田一少年の事件簿をはじめ、他の推理作品と違って異端すぎる。

メリットとデメリットの振り幅がでかい。

そこまで利用して犯人にこぎつける工藤新一のカリスマ性というか、能力は凄まじい。

さすがに比べるものではないと思うが、金田一と推理勝負なんてやったら圧倒的に差が開く気がする。

金田一ってコナンと違って、周りのヒントからピンとくることも多いし。(あくまでフォローしておくけど、俺は金田一派。)

 

コナンにおける「ドラえもん」こと博士。

博士の作った道具ってなにげにいろんな人を救ってるんだけど、ある意味コナンってそういう近未来要素強すぎて、たまにおいてけぼりくらう。

そこらへんは金田一の方が現実味あっていいかも。

コナンのシューズ間違いなく人殺せる。

 

 

それにしても今回の犯人は結構、復讐に関して徹底してる。

たまにいるけど、きちんとわきまえてる側の犯人。

動機自体も個人の怨恨とかじゃないし、間違った正義への粛清に近い。

その判断も裁きも一個人がやっていいものではないのだけども。(そしてそれでコナンに怒られるけど)

実際にこの犯人は正義感から、毛利のおっちゃんが起訴されるのを防ぐためにテロを起こしてるわけだし。

 

安室が言ってたように「責任を取る」ということの伏線が回収される。

責任を取る能力や力がない人間の正義は危険ということか。

黒の組織は直接出てこないけど、すごい伏線が隠されてるようなシーンがある。

そして、物足りないと思ってからのどんでん返し。

ここでまたヒヤヒヤする。

特にカーチェイスというか、車で飛ばしていくシーンはいろんな意味でシビれる。

絶対に死ぬことはないのは分かってるんだけどもちょっと元気良すぎ。

まあどんな機体だったとしても、パイロットがアムロだからね。(名前的にも声的にも。機体も白いから、まさに公安の白い悪魔。)

 

毛利のおっちゃんを巻き込んだ理由が、コナンの本気を出させるため、って安室の言葉があったように、今回は確かにコナンの推理が上に行き過ぎてた気がする。

全体的に圧倒的な早さ。

やっぱり工藤新一ってすごいカリスマだなあ。

 

まとめ。

この映画は、いろんな人たちの正義が交錯していた。

その価値観や、それぞれの戦い方にすごく胸が打たれる。

 

コナン「正義のためなら人が死んでもいいっていうのか!」

犯人「正義のためなら多少の犠牲は仕方ない!」

コナン「そんなの正義じゃない!」

こんなやりとりがあった。

毎回言うように永遠のテーマなんだよなあ。

犯人のはまんま悪役の台詞なんだけど、現実にそれがあったとして、どっちも選ぶことなんてできないんだよなぁ。

その正義を守るために大事な人を犠牲にできるのか、って。

犯人側の立場に立たないとわからないことがありすぎる。

 

最終的に犯行動機の引き金になった人物に

「それが私の信じたあなたの正義なんですか?」と聞かれて思いとどまるけど、

周りが見えてない時って、きっと正義と思い込みたいだけというか。

そうなってしまうと、正しさの押しつけであるだけ。

やっぱり主観的な正義の押しつけは、悪なのだと実感。

 

そして、最後に流れてくる福山雅治の「零-ZERO-」という曲。

これはすごい。

久しぶりに脳内までガツンとくる楽曲だ。

曲がカッコイイだけじゃなく、作詞がすごい。

これをゼロというワードに合わせて作れるのってやっぱり天才としかいいようがない。

 

正義の数は、涙の数だけ、

完全なる正しさなど「無(ゼロ)」なんだよ。

この歌詞にもあるように、福山雅治の正義を音楽からひしひしと感じることができる。

とにかく好きなのは一番の歌詞全部。

歌詞が全体を通して曇らないまま聞ける歌ってあんまりないんだけど、この歌は本当に珍しいくらい歌詞の重みが抜けない。

 

最初から最後まで、突き抜けるように観ることができる。

 

正直この映画はコナンだからと舐めていたけど、ある程度コナンを知ってるだけでも十分に楽しめる。

この映画は観たほうがいい作品の一つだ。

全然思ってた内容と違って、濃厚な友情を描いてた映画「orange」を観た(ネタバレ注意)

土屋太鳳・山崎賢人の主演映画。

正直普段ならこういうのは観ないんだけど、そういうことを言ってるだけじゃ結局自分の価値観は変わらないと思ってレンタルしてみた。

だって、どう考えても恋愛映画じゃん。

土屋太鳳と山崎賢人だよ?

これで恋愛じゃないほうがおかしいじゃん。

男が恋愛映画で感動するわけがないじゃん?

まあ実際に言うと恋愛ではあるんだけど、その恋愛の濃度が普通の恋愛の内容より薄い。

どちらかと言うと、高校生たちの友情物語。

 

少しファンタジーというか、通常では考えられないことが起こってるから、そういう人こそ苦手な部類になるのかもしれない。

俺はそもそも「タイムパラドックス」とか「平行世界」とかが好きだから、こういうのは大好物。

 

大ヒットした「君の名は」のような最悪の未来を変えるために、主人公の女子高生が頑張って新しい未来を紡いでいく。

作中でも語られることだが、この映画のストーリーが濃厚なのは、上で俺が好きと書いた「タイムパラドックス」という概念の話の暗い部分にスポットを当てているというところ。

 

冒頭で、未来の主人公から手紙が届く。

それは、主人公の好きな人が自ら命を絶つことが書いてあり、それを起こらないようにしてほしいという願いが綴ってあった。

これは最悪の未来を改変するという、未来の自分が出てくる作品にはありがちなものである。

筒井康隆の「時をかける少女」なんかはそれを逆手にとったパターンで面白かった。

こういう作品に関しては平行世界に関して触れることは至って少ない。

(触れる、というのは作中での絡みというものではなく、作品自体に登場しないか、その頻度が少ない)

また、平行世界ではなく、単純に未来を変えて、ハッピーエンドみたいなものが多い。

 

しかし、この映画の魅せ方の上手さの一つとして「未来を救っても、手紙を出した世界の好きな人は生き返ることはない」を描いたこと。

手紙は単純に「未来から届いた」のではなく「平行世界の未来から届いた」というものであった。

なのでもちろん平行世界の未来も物語は少しずつ進展していくし、その世界はもうその世界の未来が作られていて、改変のしようがないという前提がある。

並行世界の未来の彼に未来はない。

だからこそ命が輝く…というか、最悪の未来では自ら命を絶ってしまった、こっちの世界の彼が「生きる」という決意が余計に輝く。

「後悔を一つ消せなくてごめんなさい」という言葉を未来の自分に向けて言うシーンも、今考えたら、そっちの未来の自分には何も届いてないし、何も変わってない。

 

正直に言おう。

新たに開拓して観た映画の中では最高としか言いようのないほどの内容だった。

この映画は完全に俺の好みを把握したかのような内容。

仲間内に嫌味なキャラがいない。

俺は映画で悪役や嫌いなキャラにも感情移入してしまって悲しく感じてしまうから、その役があまりいないことにも注目。

先輩の嫌がらせくらいだ。

そのシーンも5分もないくらいの短いシーンなので、ストレスフリー。

そして無意味なラブシーンもない。

破廉恥なのももちろんないし、何を見せられてるか分からない夫婦漫才のようなシーンもない。

純粋で健全な高校生同士の恋愛と、スカッとする友情そのもの。

 

そして、土屋太鳳の演技も相まって「恋のもどかしさ」がすごく伝わってきた。

お弁当を上手く渡せないところとか、きちんと気持ちを伝えれないところは、観る側からしたらイライラしそうなところではあるが、自分自身の恋の歴史に絡めてみるとよく分かる。

小中高と恋愛や恋、片思いを経験した人は多いはずだ。

あの時、恋には臆病じゃなかったろうか?

今でもそうかもしれないけど、あの青春特有の輝きをもった臆病さだ。

当時のもどかしさや、気恥ずかしさや、純粋な気持ちが一気に戻ってくるような。

そんな感覚に陥る。

 

未来を変えるために行動するとしても、やはり人間は基本的に臆病なものだ。

勇気がでないこともあるし、言い訳をして逃げ出してしまうことも多い。

だが、その勇気は未来を変える。

人を救える。

人を幸せにできる。

臆病でいるのも自分次第ではあるが。

待っているだけじゃ世界は変わらない。

相手が何を抱えているのかなんて、本当の意味で理解できたことはないと思う。

だからこそ、待ってるだけじゃなくて自分から相手の話を聞こうとすることも大事だと思えた。

 

主人公と協力者のおかげで、未来は少しずつ変わり始める。

手紙の内容にそぐわないことも出てくる。

その「未来からの手紙」を仲間内に話してから、信じるか信じないかで「未来からの手紙は信じない、でも友達のことは信じる」ってセリフはすごく自然で暑苦しいのにさわやかで、いい言葉だった。

親友ポジション、お調子者ポジションの友達が、気を使ってくれたりするとめっちゃ好感度上がるよね。

こういうポジションの人間になりたい。

ちなみに協力者の立場には絶対になりたくない。

自分の好きな人を諦めなきゃいけないって残酷すぎる。

でもそれより、友達として応援するという決意もまた、明るい未来のためには必要なことだったのだろう。

 

山崎賢人が演じるキャラは単純にメンヘラ感が強い。

というより、そうなってしまった経緯もなかなか重いので頷けることだが。

冒頭で主人公が、手紙の内容をいたずらとして扱っていたために、メンヘラが発動してしまう。

ここについても考えていた。

彼の母親については、どちらの世界でも救えていないことを。

 

こういったタイムパラドックスとは、多少のズレや、不安因子があっても到達点は同じとする考えがある。

簡単に言うと、ゴールまでの道のりがどんなであれ、たどり着く場所に変わりはない。

そうなってしまう力が働いてしまうという。

不安定な未来を作り出さないために、もうすでにある程度の未来は決まっているわけだ。

それを変えるのが人の意思だったり、行動だったりするわけだけど、そういうのはご都合主義や熱血漫画でしかお目にはかかれない。

 

上記を踏まえると、彼のメンヘラ発動のトリガーになる「母親の自殺」は変えようがない。

彼の母親は、きっと何をしててもあそこで死んでしまう運命の輪から外れることはできなかったのだ。

…ということを言い始めるとこの映画自体も、あの手紙自体にも全く意味やストーリーが生まれなくなるからキリがない。

言い換えるならば、映画のエンディングは決まっている。

そのために役者が素晴らしい演技をしても、雨になっても、決まったエンディングに進むということ。

その映画を観るにしても、撮るにしても、あの母親の「死」こそが物語のスタートである。

「母の死」によって始まった物語で、母を救えるわけがないのだ。

 

最後の最後まで、平行世界と交わることはない。

あったのは手紙くらいだ。

そっちの世界では彼のいない無慈悲な現実が待っていて、彼のいない未来が紡がれていく。

そっちの世界の主人公に「この一瞬一瞬が、私たちの未来に繋がっていることを教えてくれてありがとう。」と言って映画は終わる。

どちらの世界でもその親友グループで太陽を見て。

 

 

この太陽のシーンを見ながら、俺は思い出していた。

中学3年生の頃、大晦日に仲良しの友人たちと集まって初詣に向かい、そこから夜通し海に向かって歌を歌ったことを。

伴奏もBGMもない、アカペラだったけど、皆で海に向かって大声で歌った。

初日の出が出るまで歌ったあれは、きっと心の中からの叫びだった。

一種の咆哮のようなもの。

あと、歌いながら自転車を全力で漕いで自分は飛び降りて、自転車だけを走らせる「幽霊自転車」もやって、みんなで笑った。

 

あの頃のようなことは、もうできないだろう。

それは分かってる。

寂しいけれど、みんな大人になって、常識も身につけて、体裁を気にするようになった。

きっと恥ずかしくてアカペラで、大声で歌えるわけがない。

そもそも元旦の朝なんて、きっと忙しくて集まれないだろう。

幽霊自転車というもの自体が本当に幽霊のように消えてしまった。

大人になるなんて、想像しなかったみんなが大人になって、そして生きている。

あの頃の未来に生きている。

 

今まで最高の景色はたくさん見てきたけど、あの時見た初日の出より美しい景色はもう見れないと思う。

あの頃みんなで全力で生きていた。

そして、これからも生きていく。

みんなより、もっと楽しんで生きていくよ。

あの頃には戻れないけど精一杯、今と未来を生きていくよ。

 

 

そんなもどかしくも青く蒼い過去を思い出させてくれるような、本当にいい映画に巡り会えた。

今回のは本当に当たり。

最高の友情映画。

素敵な映画をありがとうございました。