俺の人生を大きく変えた名作「ちょっと今から仕事辞めてくる」を改めて観てみた(ネタバレ注意)
この映画は公開されて三日後に観に行った。
その時は夜職をやってて、お客さんの食事に付き合ったあと、ブラブラしてる時に映画館の前を通って「気になってるから観たい」と提案したらお客さんもノリノリだったから勢いに任せて観た。
そもそも当時はあまり福士蒼汰が好きじゃなくて、工藤阿須加もそんなに知らなかった。
ただなぜこの映画が気になっていたのかというと、やはりタイトルだ。
この時、俺は仕事を辞めたくて仕方なかった。
しかし仕事を辞めることを、どの仕事でも言えない俺は、いつも辞めようと考えると病む。
このタイトルを見て「そんな軽いノリで辞めるんだ」みたいな感じだったと思う。
実際内容はそんな軽いノリで辞めるものじゃないんだけど。
一言で言うと、映画館で泣いた。
隣に座ってたお客さんは泣かなかった。というか笑われた。
でもあの時悩んでいた俺は、大きく人生が変わったと思った。
人生というより、生き方。
そしてその思考を変えようと思った。
「生きるために働く」とか「働くために生きる」じゃなくて、「自分のため」に働きたいと思った。
冒頭から、ブラック会社の全貌のような、絵に書いたような会社が出てくる。
上司役は吉田鋼太郎。
この人の演技がまた怪演すぎて、別の意味で涙を誘う。
普通に怖すぎるからだ。
ラジオ体操させたり、社訓を大声で復唱させる文化とかは、まだブラック会社に残っていると聞く。
あと、人格否定とか。
これはまあ簡単に言うと洗脳みたいな。
自分で判断するという選択肢を潰すとかの感じか。
自尊心を無くさせて、上の言いなりになるマシーン製造してるようなもん。
ブラックじゃないとは言え、復唱させたりするお店が多いってのは今までたくさんバイトしてきたから分かる。
でも、あれも結局はその思考を植え付けて、「個人」じゃなく「お店」というものを優先させるもの。
悪く言うのであれば個人を社会とか会社の歯車化を行ってる。
もちろん、上でも言った通り、それを行う会社がすべてブラックとは言えない。
しかし、それにどうしても合わない人間というのは一定数いるわけだ。
まさにそれが俺なんだけど。
悪く言わないのであれば、それに適応できる人でさえあれば働きやすいし、その選択も個人の自由なところではある。
しかし、やはり日本の社会は仕事というものに頭が埋め尽くされているし、仕事のために人生を作り上げてきたようなものだ。
それを悪いこととは言わない。
ただ、人格否定や個人を尊重してくれないような職場からは正直早く離脱したほうがいい。
この映画からは本当に大きなものを学べたと思う。
仕事、生き方というものへの概念、家族の大事さ、友達の大事さ。
大事なものが詰まりに詰まっている作品と言える。
残業終わりに「生きること」を放棄しようと考えたたタカシは、駅の線路に落下しかける。
間一髪で、小学生時代の同級生のヤマモトと名乗る男に救われて混乱するが、飲みに行こうと提案され居酒屋へ。
内容もう知ってたから、特筆することはないと思ってたけど、この居酒屋のシーンがすごく好き。
何で助けようとしたのか、ってのも後半分かるけど、居酒屋で仲良く昔話してるところとかすごく震える。まあそれもヤマモトの嘘なんだけど。
休みの日に外に連れ出されて、スーパーのワゴンで坂道を下るシーンなんて、子供の頃にやったいたずらと楽しさの延長戦にあるようなやつで、そこもすごくいい。
子供の頃は善悪とか、何が悪いことなのかの区別もないから、平気で怒られるようなことやっちゃうんだけど、大人になるにつれて「これは怒られる」と思ってしまうといたずら心や好奇心はだんだんと息を潜めていく。
大の大人が子供に戻ったら怒られるシーンという感じなんだけど、子供の頃の気持ちって忘れちゃうんだな、と思わされる。
その後しばらくして、ヤマモトが同級生じゃないと知ったタカシは、何か騙されてるんじゃないかと疑って怒るんだけど(実際に本名も知らなかったわけだし)、そこでヤマモトが
「始まりは勘違いだったけど友達になれた。もしも同級生じゃなかったら俺とは友達になれなかったか?」
と聞くんだけど、確かに子供の頃って、どこか外に遊びに行けば誰彼構わず好奇心のままに質問したりして、友達になってたはずなんだけど、大人になるにつれてそれを忘れていく。
忘れる、というよりは臆病になってしまって、それに慣れてしまう。
「知らない人にはついていかない」というような言葉は、子供を守るためには必要なことだが、それを愚直に守り続けてきた場合、警戒心まみれになるのかもしれない。(実際に世間が昔より物騒になったのも原因なんだろうけど。)
生まれつき「人見知り」だったわけじゃない。
ある一定の時期に「私は人見知りだ」と言い始めて、自分の限界を定めてしまう。
それから、他人は他人に興味を抱かなくなっていく。
だからこの映画で、誰にでもフレンドリーに接することができるヤマモトという人間像は、ある意味俺の理想である。
ヤマモトのおかげで、いい感じに吹っ切れたタカシは仕事で成功…というわけにもいかず、上司に罵られ、土下座までさせられてしまう。
それで結構病んでしまう真面目さが、冒頭で彼を死に追い込もうとしたものだ。
仕事のミスで上司に罵られて、病んでいる時にたまたまヤマモトに会って飲みに誘われて「飲みたくないし、飲んじゃいけない気もする」と返事をするが、結局ヤマモトはビールを二つ注文する。
常識に縛られていないからこそできることなのだが、飲んじゃいけないと誰が決めたのだろうか。
勝手に自分がそんなときは飲んじゃいけない、飲まないほうが真面目と思っただけなんじゃないか。
そして、世の中はそれで回っている。
周りの考えた常識に縛られている。
誰が作ったか分からない常識に。
一緒にサッカーしてるシーンもなかなか印象的で、自由人のヤマモトに対して「仕事を辞めることは大変なんだよ」とタカシは言う。
「せっかく正社員になったんだから」「次が見つかるなんか分からないから」とそれっぽい理由をつけて。
しかしヤマモトは「正社員がなんでいいの?」「仕事を辞めることに比べたら何の方が簡単なの?」「死ぬことの方が簡単か?」と返す。
これは俺が前から主張してるようなことなんだけど、元を辿ればこの映画のこのシーンから来てるのかもしれない。
サッカーでも移籍した途端に活躍する選手なんてたくさんいるし、監督とかチームメイトとの相性とかもある、とヤマモトは言うが、これは自分の輝ける場所は他にもたくさんあるはずだというメッセージのように思う。
だからそこに固執して悩んでる場合じゃない、と。
この時タカシには全然届かないんだけど、これがまさに日本人の思考を体現してるキャラだから仕方ない。
タカシは仕事で嵌められてて、それで上司にまた大目玉をくらい完全に死を決意する。
飛び降りという方法で。
この時に間一髪ヤマモトが助けに来て「何でここが分かったんだ?」と不思議そうにタカシが聞くが、ラストらへんでその理由がわかったときが個人的に一番泣ける。
それは置いといて、飛び降りようとしてるタカシに「人生は誰のためにあると思う?」と聞く。
自分のため…と返事をするタカシに「それだけじゃない、自分を大切に思ってる人のため」と返す。
この時のやりとりで、タカシは久しぶりに実家に久しぶりに一度帰郷するんだけど、そこからの家族のやりとりがまたいい内容。
「仕事を辞めたいって言ったらどう思う?」と親に聞いて、怒られると思っていたら親が理解者だったことを知る。
会社は世界にひとつじゃないんだから。
若いんだから、今のうちにいくらでも失敗すればいい。
人生、生きてさえいたら案外何とかなる。
こう言った両親だったが、そのあとに父親が「お母さんはどうでもいい用事考えてお前の声聞こうとしてるんだぞ」って言った時に、もう涙腺崩壊。
むしろこれを書きながら思い出して、また涙腺崩壊。
親って何だかんだ、子供のことを心配してくれてる。
それはきっと血のつながり、なんて簡単な言葉じゃ表せないところで繋がってるからだと思う。
今までのこと、全部当たり前だと思ってた。
これはタカシが言った言葉だが、確かに今ある人生や恩恵を当たり前だと人は思い込んでいる。
思い込むというより、そういうふうに受け取ってしまう。
だけど、周りが自分のためにどれだけ想ってくれているのかを、もっと理解しないといけない。
決意が決まったタカシは朝からヤマモトを呼び出して「ちょっと今から仕事辞めてくる」と宣言して上司に辞めることを伝えに行く。
ここでの上司の暴言も、結構えげつない。
吉田鋼太郎の怪演がここでもヤバいが、こっち側としてもだいぶ清々しくなってるから、気持ちよく見れる。
最近の若いやつはすぐ諦める、何をやってもどこに行っても続かない、全部放り出して逃げるだけ、甘いんだよ
お前みたいな奴に次の仕事が簡単に見つかると思ったら大間違いだ
なんて罵詈雑言のオンパレード。
でも開き直ってる人間は強いから「簡単じゃなくてもいいんです」って返す。
「自分に素直に生きていきたい」という、その決意のままそこに来てるんだから強い。
自分が何をやりたいか分からないまま仕事を選んだ、というセリフがあったけど、高校を卒業する18歳の段階で進路を決めさせようとする日本人の思考って昔から本当によく分からない。
そもそも日本人は相手の期待に答えようとしすぎなのかもしれない。
一回YESと答えたら相手もつけ上がって、何回も同じようなこと頼んでくるような社会だ。
そのせいで、自分が病んで苦しんでたら本当にしょうもない。
そのせいで、命を絶とうとしてたなら本当にどうかしてる。
特にブラック会社ってのは人の優しさにつけこんでくる。
それに搾取されているのが、弱者。
弱者であることを認めないことが、まさに思考停止である。(就職してるから周りから馬鹿にされないですむ、みたいな一種の逃げ)
堀江貴文は「ブラック企業がなくならないのは、そこを皆が辞めようとしないから」と言っていた。
皆が辞めたら会社が回らなくなるから時給を増やすか、何らかの対策をとらなきゃいけないのに辞めないでいるから賃金も低いまま。
それで文句を言う方もナンセンスだ。
綺麗事で生きていけない、そんなことを俺も思っていたが別の考え方も何となく出てきた。
これは綺麗事で生きていけないという現実ではなく、生きていくのに綺麗事はいらない、ということなのかもしれない。
どのみち生きていけるのだから、綺麗事ではなく全て現実なのだ。
自分の生き方の路線や、夢なんかって出会った人に触れて、感動したり、衝撃を受けたりして出来上がっていく。
自分の道を、自分だけで分かったようなつもりになっていると、やりたくない仕事に繋がるのかもしれない。
俺は今まで仕事を接客業ばかりで選んできたけど、まさにそれだ。
勝手に接客業が好きと思い込んでいただけで、実際はもっと深掘りしてみるべきだった。
働くについて、考えずにいることこそがこれからの時代遅れをとっていく。
もっと自分のことを知って、当たり前と思っていることこそ、大事にしなきゃいけない。
この映画のヤマモトのようになりたい。
まさに彼は誰かにとってのヒーローだった。
もっと清々しく笑っていけるようになりたい。
考えさせられることの多い映画で、特につまらない部分もないはず。
人間の自由さに気づかせてくれる、素晴らしい映画だった。
リメイクとリブートの違いが気になっただけでここまで話す?!
最近、TSUTAYAで映画のDVDを借りることが多い。
つい先日、たまたま目についてしまった言葉「リブート」。(すごい今更なんだろうけど…汗)
「リメイク」ではなく…?とその時、気になったので調べてみた。
元々はPCの用語で、「再起動」を意味する言葉であるらしい。
re(再び):boot(起動)ってことね。
結構「re:」がつく言葉は昔から好き。
中二感があって心が疼く。
re:birthとか、なんかまさに中二病全開だよね。
ちなみにリセット(re:set)だと不具合によって、強制終了してからの再起動を指すらしい。
俺自身生きてきた中で、何度か体験したことがあるが、
それまで知らなかった言葉を知った途端に、目につく、耳につくようになったことはないだろうか?
もしくは知った途端に、その言葉を使うことが多くなったとか。
もちろん意識したことがなかった範囲が自分にあった、という理由もあると思う。
人間、自分の思考の範囲外のことはあまり見えていないから。
でもこういうことが起こる中で、たまに不思議としか思えないこともある。
まさに俺にとって、「リブート」という言葉を初めて知った日の同じ時間帯に、その言葉を仲間に使われたのだから。
映画ではリメイクという言葉をよく耳にしてきた。
単発作品などに多く、エンディングもリメイク元の作品に沿うことが多いそうだ。
対して、リブートという言葉も前より使われることが多くなってきた。
代表的に分かりやすい例を言うなら、新劇場版エヴァンゲリオン。
続編になりやすく、かつエンディングも大元の作品に全然沿わない。
つまり言うならば、土台が同じ上での再構築。
単純に言葉を調べてみて思ったのは、リセットと違うところは、この再起動が「自らの意思・選択」によって行われるということ。
リセットすることは受動的で、リブートするのは能動的。
つまり、俺が今までリブートという言葉を知らなかったことが、痛い。
言葉には魂が宿る。
あくまで、自分の再起動のタイミングは自分で決めていくことを自覚するべきだった。
人生のエンディングなんてどうなるか、いつも人にはわからない。
だから今停滞しているのなら、自分にリブートをかけていかなければならない。
そして、前に立ち上げたコミュニティを、もう一度リブートする。
だからこそ、自分自身がもっと能動的に生きていかなければ。
圧倒的に過去作とクオリティが違う劇場版「名探偵コナン ゼロの執行人」を観た(ネタバレ注意)
最初に断っておく。
俺はとんでもなく「金田一少年の事件簿」が好きだということを。
過去からよく比較されることが多い探偵作品「名探偵コナン」とは対照的なものである。
ちなみに昔は、コナンが嫌いだった。
理由としては犯人の動機がみみっちいとか、「バーロー」が鼻につく、とかそんな感じ。
金田一少年は対して、十年越しの復讐とか、親の敵とか、恋人の敵とか。
その重さが個人的に好きだったのが金田一で、コナンはなんとなく受け入れられなかった。
ところが、今では結構コナンを好きになったこともあり、実は金田一少年の事件簿は自分の中で迷走してる感がある。(今やってるの少年でもなくなったし)
今考えたら、金田一の犯人の動機は重すぎる。
子供向けじゃないレベルなのだが、それが好きだった子供の頃の俺に驚きだ。
探偵学園Qを挟んでから、金田一の作画がみんな幼くなったのもちょっとマイナス。
最初の絵のタッチが不気味で好きだった。
caseシリーズくらいが個人的に一番いい。
あと、やっぱり高遠遙一は漫画の好きな敵キャラTOP3に入る。
関係ないが、1位フリーザ、2位涅マユリに続くほどのカリスマである。(中尾隆聖に寄ってるのは、たまたまではない。中尾隆聖が大好きなんだ。)
そういや、一回金田一少年の事件簿のアニメで容疑者3人の声優が、中尾隆聖、大塚明夫、山口勝平だったことあったな。
というか、コナンの映画の話からズレた。
前々からコナンの映画に関しては内容を落とすことがないというか、どの映画も面白い。
いつも強い蘭姉ちゃんが乙女化するのはいかがなものかと思うが、それもご愛嬌。(映画のジャイアン現象)
さて、ゼロの執行人に話を戻そう。
今まで映画版のコナンもいくつか観てきているが、スケールが違った。
そもそも一番の人気だった怪盗キッドを一気に押しのけた人気キャラ、安室透がメインなのもあるだろう。
公開直後は映画館が大変なことになってたのを、友人に聞いたことがある。
そもそも「名探偵コナンという作品の中だけ」で人気のあった怪盗キッドだが、アニメで言えばそれが通常だ。
アニメの垣根を越えて圧倒的に人気の出るキャラなんてあんまりいない。(パッと浮かぶので言えばドラゴンボールや銀魂とか、それでもまだ弱い。)
全然、コナンに興味のなかった層まで取り込んでしまう安室透の人気たるや…。
今回の映画は展開が早い。
主人公サイドであるはずの毛利のおっちゃんの逮捕だったり、普段は味方寄りである安室が敵のポジション?と、予告にも完全に力を入れていたが、こんないにサクサク立ち位置をしっかり固定してくれると物語に入りやすい。
しいてこの映画の難点といえば、いつも出てるキャラ以外にモブ顔が多すぎることだと思う。
おっちゃんを庇うために弁護だとか検察って言葉が出てくるのもあって、そういうところの説明もいくつかある。
この映画を観ると、ゲーム「逆転裁判」をやりたくなってくる。
ちなみに余談だが安室透サイドでの古谷徹と飛田展男の絡みが聞けるのは、ガンダムファンへのご褒美だと思っていい。
安室透の人気の一つなのかもしれないが、全く揺らがない正義と、そこに私情を挟まないところが清々しい。
そのためにしっかり「責任をとる」男らしさもカッコイイんだと思う。
圧倒的な正義というか、そのために全てを厭わない強さ。
ワンピースで言うところの赤犬のように感じてもしまうけども。
この映画ではいつもの名台詞「江戸川コナン…探偵さ」が物語中盤にて聞ける。
そのシーンもなんか結構カッコイイ。
コナンもいつもより輝いて感じる映画だ。
前々から思っていることだけど、コナンという作品の魅力には「子供を演じる」という部分もあることを改めて認識した。
金田一少年の事件簿をはじめ、他の推理作品と違って異端すぎる。
メリットとデメリットの振り幅がでかい。
そこまで利用して犯人にこぎつける工藤新一のカリスマ性というか、能力は凄まじい。
さすがに比べるものではないと思うが、金田一と推理勝負なんてやったら圧倒的に差が開く気がする。
金田一ってコナンと違って、周りのヒントからピンとくることも多いし。(あくまでフォローしておくけど、俺は金田一派。)
コナンにおける「ドラえもん」こと博士。
博士の作った道具ってなにげにいろんな人を救ってるんだけど、ある意味コナンってそういう近未来要素強すぎて、たまにおいてけぼりくらう。
そこらへんは金田一の方が現実味あっていいかも。
コナンのシューズ間違いなく人殺せる。
それにしても今回の犯人は結構、復讐に関して徹底してる。
たまにいるけど、きちんとわきまえてる側の犯人。
動機自体も個人の怨恨とかじゃないし、間違った正義への粛清に近い。
その判断も裁きも一個人がやっていいものではないのだけども。(そしてそれでコナンに怒られるけど)
実際にこの犯人は正義感から、毛利のおっちゃんが起訴されるのを防ぐためにテロを起こしてるわけだし。
安室が言ってたように「責任を取る」ということの伏線が回収される。
責任を取る能力や力がない人間の正義は危険ということか。
黒の組織は直接出てこないけど、すごい伏線が隠されてるようなシーンがある。
そして、物足りないと思ってからのどんでん返し。
ここでまたヒヤヒヤする。
特にカーチェイスというか、車で飛ばしていくシーンはいろんな意味でシビれる。
絶対に死ぬことはないのは分かってるんだけどもちょっと元気良すぎ。
まあどんな機体だったとしても、パイロットがアムロだからね。(名前的にも声的にも。機体も白いから、まさに公安の白い悪魔。)
毛利のおっちゃんを巻き込んだ理由が、コナンの本気を出させるため、って安室の言葉があったように、今回は確かにコナンの推理が上に行き過ぎてた気がする。
全体的に圧倒的な早さ。
やっぱり工藤新一ってすごいカリスマだなあ。
まとめ。
この映画は、いろんな人たちの正義が交錯していた。
その価値観や、それぞれの戦い方にすごく胸が打たれる。
コナン「正義のためなら人が死んでもいいっていうのか!」
犯人「正義のためなら多少の犠牲は仕方ない!」
コナン「そんなの正義じゃない!」
こんなやりとりがあった。
毎回言うように永遠のテーマなんだよなあ。
犯人のはまんま悪役の台詞なんだけど、現実にそれがあったとして、どっちも選ぶことなんてできないんだよなぁ。
その正義を守るために大事な人を犠牲にできるのか、って。
犯人側の立場に立たないとわからないことがありすぎる。
最終的に犯行動機の引き金になった人物に
「それが私の信じたあなたの正義なんですか?」と聞かれて思いとどまるけど、
周りが見えてない時って、きっと正義と思い込みたいだけというか。
そうなってしまうと、正しさの押しつけであるだけ。
やっぱり主観的な正義の押しつけは、悪なのだと実感。
そして、最後に流れてくる福山雅治の「零-ZERO-」という曲。
これはすごい。
久しぶりに脳内までガツンとくる楽曲だ。
曲がカッコイイだけじゃなく、作詞がすごい。
これをゼロというワードに合わせて作れるのってやっぱり天才としかいいようがない。
正義の数は、涙の数だけ、
完全なる正しさなど「無(ゼロ)」なんだよ。
この歌詞にもあるように、福山雅治の正義を音楽からひしひしと感じることができる。
とにかく好きなのは一番の歌詞全部。
歌詞が全体を通して曇らないまま聞ける歌ってあんまりないんだけど、この歌は本当に珍しいくらい歌詞の重みが抜けない。
最初から最後まで、突き抜けるように観ることができる。
正直この映画はコナンだからと舐めていたけど、ある程度コナンを知ってるだけでも十分に楽しめる。
この映画は観たほうがいい作品の一つだ。
全然思ってた内容と違って、濃厚な友情を描いてた映画「orange」を観た(ネタバレ注意)
土屋太鳳・山崎賢人の主演映画。
正直普段ならこういうのは観ないんだけど、そういうことを言ってるだけじゃ結局自分の価値観は変わらないと思ってレンタルしてみた。
だって、どう考えても恋愛映画じゃん。
土屋太鳳と山崎賢人だよ?
これで恋愛じゃないほうがおかしいじゃん。
男が恋愛映画で感動するわけがないじゃん?
まあ実際に言うと恋愛ではあるんだけど、その恋愛の濃度が普通の恋愛の内容より薄い。
どちらかと言うと、高校生たちの友情物語。
少しファンタジーというか、通常では考えられないことが起こってるから、そういう人こそ苦手な部類になるのかもしれない。
俺はそもそも「タイムパラドックス」とか「平行世界」とかが好きだから、こういうのは大好物。
大ヒットした「君の名は」のような最悪の未来を変えるために、主人公の女子高生が頑張って新しい未来を紡いでいく。
作中でも語られることだが、この映画のストーリーが濃厚なのは、上で俺が好きと書いた「タイムパラドックス」という概念の話の暗い部分にスポットを当てているというところ。
冒頭で、未来の主人公から手紙が届く。
それは、主人公の好きな人が自ら命を絶つことが書いてあり、それを起こらないようにしてほしいという願いが綴ってあった。
これは最悪の未来を改変するという、未来の自分が出てくる作品にはありがちなものである。
筒井康隆の「時をかける少女」なんかはそれを逆手にとったパターンで面白かった。
こういう作品に関しては平行世界に関して触れることは至って少ない。
(触れる、というのは作中での絡みというものではなく、作品自体に登場しないか、その頻度が少ない)
また、平行世界ではなく、単純に未来を変えて、ハッピーエンドみたいなものが多い。
しかし、この映画の魅せ方の上手さの一つとして「未来を救っても、手紙を出した世界の好きな人は生き返ることはない」を描いたこと。
手紙は単純に「未来から届いた」のではなく「平行世界の未来から届いた」というものであった。
なのでもちろん平行世界の未来も物語は少しずつ進展していくし、その世界はもうその世界の未来が作られていて、改変のしようがないという前提がある。
並行世界の未来の彼に未来はない。
だからこそ命が輝く…というか、最悪の未来では自ら命を絶ってしまった、こっちの世界の彼が「生きる」という決意が余計に輝く。
「後悔を一つ消せなくてごめんなさい」という言葉を未来の自分に向けて言うシーンも、今考えたら、そっちの未来の自分には何も届いてないし、何も変わってない。
正直に言おう。
新たに開拓して観た映画の中では最高としか言いようのないほどの内容だった。
この映画は完全に俺の好みを把握したかのような内容。
仲間内に嫌味なキャラがいない。
俺は映画で悪役や嫌いなキャラにも感情移入してしまって悲しく感じてしまうから、その役があまりいないことにも注目。
先輩の嫌がらせくらいだ。
そのシーンも5分もないくらいの短いシーンなので、ストレスフリー。
そして無意味なラブシーンもない。
破廉恥なのももちろんないし、何を見せられてるか分からない夫婦漫才のようなシーンもない。
純粋で健全な高校生同士の恋愛と、スカッとする友情そのもの。
そして、土屋太鳳の演技も相まって「恋のもどかしさ」がすごく伝わってきた。
お弁当を上手く渡せないところとか、きちんと気持ちを伝えれないところは、観る側からしたらイライラしそうなところではあるが、自分自身の恋の歴史に絡めてみるとよく分かる。
小中高と恋愛や恋、片思いを経験した人は多いはずだ。
あの時、恋には臆病じゃなかったろうか?
今でもそうかもしれないけど、あの青春特有の輝きをもった臆病さだ。
当時のもどかしさや、気恥ずかしさや、純粋な気持ちが一気に戻ってくるような。
そんな感覚に陥る。
未来を変えるために行動するとしても、やはり人間は基本的に臆病なものだ。
勇気がでないこともあるし、言い訳をして逃げ出してしまうことも多い。
だが、その勇気は未来を変える。
人を救える。
人を幸せにできる。
臆病でいるのも自分次第ではあるが。
待っているだけじゃ世界は変わらない。
相手が何を抱えているのかなんて、本当の意味で理解できたことはないと思う。
だからこそ、待ってるだけじゃなくて自分から相手の話を聞こうとすることも大事だと思えた。
主人公と協力者のおかげで、未来は少しずつ変わり始める。
手紙の内容にそぐわないことも出てくる。
その「未来からの手紙」を仲間内に話してから、信じるか信じないかで「未来からの手紙は信じない、でも友達のことは信じる」ってセリフはすごく自然で暑苦しいのにさわやかで、いい言葉だった。
親友ポジション、お調子者ポジションの友達が、気を使ってくれたりするとめっちゃ好感度上がるよね。
こういうポジションの人間になりたい。
ちなみに協力者の立場には絶対になりたくない。
自分の好きな人を諦めなきゃいけないって残酷すぎる。
でもそれより、友達として応援するという決意もまた、明るい未来のためには必要なことだったのだろう。
山崎賢人が演じるキャラは単純にメンヘラ感が強い。
というより、そうなってしまった経緯もなかなか重いので頷けることだが。
冒頭で主人公が、手紙の内容をいたずらとして扱っていたために、メンヘラが発動してしまう。
ここについても考えていた。
彼の母親については、どちらの世界でも救えていないことを。
こういったタイムパラドックスとは、多少のズレや、不安因子があっても到達点は同じとする考えがある。
簡単に言うと、ゴールまでの道のりがどんなであれ、たどり着く場所に変わりはない。
そうなってしまう力が働いてしまうという。
不安定な未来を作り出さないために、もうすでにある程度の未来は決まっているわけだ。
それを変えるのが人の意思だったり、行動だったりするわけだけど、そういうのはご都合主義や熱血漫画でしかお目にはかかれない。
上記を踏まえると、彼のメンヘラ発動のトリガーになる「母親の自殺」は変えようがない。
彼の母親は、きっと何をしててもあそこで死んでしまう運命の輪から外れることはできなかったのだ。
…ということを言い始めるとこの映画自体も、あの手紙自体にも全く意味やストーリーが生まれなくなるからキリがない。
言い換えるならば、映画のエンディングは決まっている。
そのために役者が素晴らしい演技をしても、雨になっても、決まったエンディングに進むということ。
その映画を観るにしても、撮るにしても、あの母親の「死」こそが物語のスタートである。
「母の死」によって始まった物語で、母を救えるわけがないのだ。
最後の最後まで、平行世界と交わることはない。
あったのは手紙くらいだ。
そっちの世界では彼のいない無慈悲な現実が待っていて、彼のいない未来が紡がれていく。
そっちの世界の主人公に「この一瞬一瞬が、私たちの未来に繋がっていることを教えてくれてありがとう。」と言って映画は終わる。
どちらの世界でもその親友グループで太陽を見て。
この太陽のシーンを見ながら、俺は思い出していた。
中学3年生の頃、大晦日に仲良しの友人たちと集まって初詣に向かい、そこから夜通し海に向かって歌を歌ったことを。
伴奏もBGMもない、アカペラだったけど、皆で海に向かって大声で歌った。
初日の出が出るまで歌ったあれは、きっと心の中からの叫びだった。
一種の咆哮のようなもの。
あと、歌いながら自転車を全力で漕いで自分は飛び降りて、自転車だけを走らせる「幽霊自転車」もやって、みんなで笑った。
あの頃のようなことは、もうできないだろう。
それは分かってる。
寂しいけれど、みんな大人になって、常識も身につけて、体裁を気にするようになった。
きっと恥ずかしくてアカペラで、大声で歌えるわけがない。
そもそも元旦の朝なんて、きっと忙しくて集まれないだろう。
幽霊自転車というもの自体が本当に幽霊のように消えてしまった。
大人になるなんて、想像しなかったみんなが大人になって、そして生きている。
あの頃の未来に生きている。
今まで最高の景色はたくさん見てきたけど、あの時見た初日の出より美しい景色はもう見れないと思う。
あの頃みんなで全力で生きていた。
そして、これからも生きていく。
みんなより、もっと楽しんで生きていくよ。
あの頃には戻れないけど精一杯、今と未来を生きていくよ。
そんなもどかしくも青く蒼い過去を思い出させてくれるような、本当にいい映画に巡り会えた。
今回のは本当に当たり。
最高の友情映画。
素敵な映画をありがとうございました。
生田斗真主演の映画「脳男」を観たけどグロとかじゃなく、マジで吐いた話(ネタバレ注意)
昔から生田斗真が好きだ。
イケメンが好きなのもあるが、夜職の時にたまに似てると言われていたのも理由の一つではある。
久しぶりに生田斗真主演の「土竜の唄」をレンタルしたついでに、昔から気になっていた脳男もレンタルした。
土竜の唄のヤンキーチックな雰囲気と違って、このアンニュイな感じがとても似合うのも生田斗真ならでは、である。
イメージしていた通り、冒頭から暗い。
こういった暗い雰囲気の映画は大好きだ。
最初の方から、バスが爆発して、子供が燃えてるシーンは胸にくるものがある。
とはいえ、その特殊メイクが何か怖い。
子供を被害にあわせる映画って、日本じゃつくりにくいだろうし、全体的に空気の重さも日本向けじゃないのはたしかだと思った。
あと、出演してる人たちの演技が心に直接ぶつかってくるのが、良くも悪くもキツイ。
少し前にDMCを観てたから、松雪泰子もさすがだなあ、と思いながら見入っていると、江口洋介も出てて、まさに出演してる人たちからして本気で作りこまれているのが分かる。
あと、生田斗真が出てくるのが遅い。
それと、途中までまともに喋らないから、てっきり敵なのかと思わせられてしまった。
見事に騙された。
この作品での敵といえば、二階堂ふみ。
彼女をあまりスクリーンで観たことがなかったが、もう役の入り方がえげつない。
宮崎あおい2と個人的に思ってたけど、宮崎あおいより出てる作品は面白い。
ちなみにどうでもいいが、宮崎あおいが出てた「青い車」という映画は、個人的にワースト3に入るほどの駄作だった。
あと、後半「爆発させとけ」みたいな感じで爆弾が爆発しまくるんだけど、あれは少し厄介だった。
爆発のシーンは何となく音も大きいし、
あ、爆発した、この人死んじゃうのかな?→うわあ…
みたいな流れが少し脳内で厄介だ。
後半はトイレを我慢しながらだったので余計に辛かった。
ちなみに何で、この映画をブログに書こうと思ったかというと、今まであまり体験したことがなかったことが身に起こったからだ。
前回体験したのは、ゲーム「SIREN2」をクリアしたときだから、17〜8歳位の頃だと記憶している。(15年ほど前)
永井頼人というキャラのエンディングにて起こる、世界の反転による世界を見た永井頼人が発狂するシーン。
あの時に「正しい行いが人を救うわけではない」と刻みつけられた。
そして、どう考えてもメンタルブレイクとしか言いようのないことが起こった。
圧倒的な虚無感、圧倒的な孤独感。
何をしても救われないという、絶望感。
そんな負のエネルギーを身と心に、永続的に刻みつけられる感じ。
身体的に言えば、インフルエンザの時に毛布を着込んでも寒い、みたいな感覚が心で起こる。
永遠に降りていくかのような、らせん状のネガティブ。
ある意味、身体的なダメージより深刻な気がする。
このゲームのエンディングを見たときは、2日間ほどまともにご飯が食べれないという状況に陥ったくらいだった。
元々当時は中二病全開で、俺に感情はないなんて思ってた時期だったから、こんなえげつないストーリーを考えられる人がこの世にいることが信じれなかった。
さて話を戻すと、脳男にて江口洋介演じる刑事の部下が身体に爆弾を巻きつけられているところのシーンである。
生田斗真演じる一郎を、ピストルで撃ち殺せば部下は助けられると聞き、銃口を向ける。
その戦闘の最中、その部下は自分がもう助からないことを悟って「俺が死ぬから、やめて」と泣きながら横に倒れ爆弾が爆発する。
自殺を選んでしまったわけだが、そのシーンを観てから、胸が締め付けられた。
崩れ落ちる江口洋介の演技も相まったのはあるが。
俺はそれを観たあと、トイレに行って吐いた。
上で話したようなネガティブが、今度は胃まで侵食してきたらしい。
その後もそのシーンが忘れられず、ただモヤモヤが残ったままだった。
というかあのシーンが焼き付きすぎて離れない。
危うく二階堂ふみ嫌いになるとこだった。
でもあの演技もすごいし、狂気が伝わってくる。
やっぱり役者さんってすごいなあ。
この映画を通して、生田斗真が演じるキャラは、実は生粋の善人である。
そこが最初の方から悪人だと錯覚を起こしてしまうように描かれているのはさすがとしか言い様がない。
だが、その善は本当に正しいのか?という問いかけによって締めくくられる。
これは「バトルロワイヤル2」とか「デスノート」にて描かれているもののように感じる。
力を持って、常識を持って、間違いを正すとしても、そのために人を人が裁くのはどうか、という永遠のテーマである。
正義は角度を変える。
この「脳男」でいうのであれば、精神科医や警察からしたら、結局は一般の人間である主人公が人をその手で殺すことは悪にしかとらえられないのである。
それを正義と主張しないのが、この生田斗真の役の面白いところだが。
しかもこの映画は、あまりハッピーエンドでも終わらない。
殺したいほど憎い人物を許し、更正させたはずだったのに、結局その人物は更生しておらず、その悪を暴かれ主人公によって殺されることになる。
社会的に見たら、それは悪に映る。
しかし、救われた人からしたらどうなのだろうか。
その死によって救われた人がいた。
何を守ればいいのだろう。
自分の命が脅かされたとき、同じことを人間は言えるのだろうか。
デスノートで、キラがやっていたことを支持する人間がいたのも当たり前だ。
悪とする一方で、正義と称える人もいる。
その裁きを下す権利を持ち合わせていないのは、事実だが「正義」という線引きは曖昧すぎるのだ。
そして、これからも人が人である限り、それは消えることはない。
人間に与えられた永遠のテーマである。
人を許すことは、人を殺すより難しいから。
その強さも正しいのか。
そして、角度も変えるのか。
このモヤモヤがとれないのが、すごくもどかしい。
最後に言っておくと、脳男というタイトルの割に頭脳戦はほとんどない。笑
男だからって食べ放題の値段が高いのは少し違うと思う。
昔から、俺は小食だ。
今では前よりマシだけど、少し食べただけでお腹はいっぱいになる。
そうなると昔から困ったことが発生する。
飲み会の時なんかの「食べ放題」だとどうも損をした気持ちになるわけだ。
女性より、500〜1000円高いとかはザラである。
あれって結局のところ、男性の方が女性よりも飲み食いするから高いわけだよね。
別に文句も言ったことはないんだけど、昔からそこに関しては違和感を感じてて。
でもたまに、全く食べない時とかもある。
一口食べただけでもう満足…ってことはよくある。
母親と一緒に行った時間無制限の食べ放題のお店を、32分で出るような胃袋だ。
こと「食」に関しては全くもって元を取れない。
でもその人が食べるか食べないかなんて、判断材料が男性か女性かで見極めるしかないのも事実。
別に500円をケチるつもりもない。
でも何か違うなあ、と考えもしてしまう。
仲の良いメンバーの中に、めっちゃ食べて、めっちゃ飲む奴がいる。
ああいうのは本当に元を取れてるんだと思う。
その仲間内でも、俺は本当に食べない方なので、いつもちゃんと食べてるか心配される。
〆のラーメンとかももってのほかで、何で飯を食って、酒を飲んだあとに、もっかい飯を食べるのかが分からない。
ていうか、みんなよく入るよなあ。
食べるのが嫌いとか、苦手とか、めんどくさいとかはない。
むしろ美味しいものは好きだし、たくさん食べたい。
でも入らない。
コース料理とかも、あんまり食べれないし、少し損した気持ちになる。
そういえば、結婚式とかで出てくる料理とかも、後半の方は入らない。
メインディッシュの肉とかもっと美味しいタイミングで食べたいのに。
もし俺が結婚式をするとしたら、そういうアンケートをとりたいくらい。
むしろずっと肉だけでも良さそうなのに。
もっと食べれるようになろうと決意。
それにしても中身のない記事を書いてしまった笑
人生なんて舐めてるくらいが丁度いい
世の中には、生きることに絶望した人がいる。
世の中には、生きていくことに絶望した人がいる。
なぜか追い詰められた人は死を選ぶ。
俺にはそれが分からない。
死ぬことを考えると、ただただ怖い。
自分の思考の範囲外に飛び出さなければならないし、それを実際に理解するときには、もう自分はこの世にはいないのだ。
それでも、この世には自ら死を選ぶ人がたくさんいる。
それほど、絶望したのだろう。
きっとその絶望は、俺なんかには理解できないほどのものなのだ。
人は対人関係において悩むことは多い。
職場でも学校でもそうだ。
いじめだったり、グループの違いだったり。
それはどこに行っても付いて回るもの。
結局のところ、他人がこちらの人生に干渉してくることからは逃れられない。
そこに苦しみしか見いだせなかったとしたら、その苦しみを続けるのが嫌になるのは、至極当然のことである。
俺は昔、とんでもなく真面目だった。
今も根本的には真面目なのだが、だいぶ緩く考えれるようになった。
厳格な両親の元、真っ直ぐに育てられた。
それはスパルタとも呼べるようなものだった。
子供の頃に植えつけられた「常識」にまだどこかでとらわれている。
仕事をしているとき、誰よりも真面目に働いた。
給料をもらうためには、しっかりと働かなければならない。
遅刻もしないし、上からの命令には完全に忠実である。
犬のように飼い慣らされていれば、怒られることもない。
働いていると、よく「社員にならないか」と誘われた。
それは本当に嬉しいことだったが、どこも断り続けていた。
立場が嫌いだった。
ただそれだけで、仕事自体が嫌になったとかはない。
それくらい仕事を好きになってから、働く。
それが働かせてもらう側の、当然の思考だと思っていた。
休みも自分では決めない。
そのほうが店に、社会に迷惑をかけないと思っていたからだ。
正月やお盆、クリスマスやGWのような人手が足りなくなるイベントには、本当は嫌だったけど休みをとらなかった。
それくらい従順に働いていた。
昨年、とある大手のリサイクルショップに勤めていたときの話だ。
持ち前の真面目さと、仕事をすぐに覚えた努力によって、バイトリーダーを任されていた。
これは別に、このときのお店が初めてではない。
昔から、こういうポジションを任されることが何かと多かった。
新人に怒ることなく仕事を教えるのも上手い。
そもそも怒ること自体がナンセンスだと思っている。
休みも主張しない、急な欠勤が出たら代わってシフトに出るし、上からの指示には「YES」しか答えない。
まさに会社から見たら理想的な駒である。
その時も、それまでも、それでよかった。
俺はそういう生き方をしていくものだと、心で思っていたわけだ。
しばらく働くと、いろんな想いが交錯していた。
原因は店にも、人にもあった。
基本的に社員は圧倒的な残業に見舞われる。
そしてそれに付き合わされることが増えた。
残業という言葉は、昔から嫌いだった。
理由は「自分の時間が減る」から。
自分の時間を楽しくするために働いているのに、残業なんかしてたらその時間も終わってしまう。
だが、NOを言えない俺は常に要望に応え続けた。
そういうことがしばらく続くと、社員たちは定時で帰るスタッフを邪険にし始めた。
何となく立場的に優遇してもらえることに優越感を味わいながらも、他のスタッフを邪険にする理由はないことを思うとモヤモヤしたものが胸の中に残っていた。
しかし、仕事ができない人や、仕事をしない人とも俺の給料は変わらない。
ほんの少しのモヤモヤを抱えながらも、働いた。
正月は朝の9時から、夜の22時まで働いた。
何となく、生きている実感を持てなかった。
普通に分かっていた。
他のスタッフは、俺に甘えている。
何かミスをしても、俺がフォローをするし、基本的にほとんどの仕事ができたから。
後始末も、手伝いも、何をやっても万能にこなせる。
他の人は別に俺の仕事量を真似しなくても同じ時給がもらえたのだった。
俺は「接客業が好き」だった。
だから接客を大事にしているということを聞いて、この店で働きたいと思ったわけだ。
いつの間にか、いろんな仕事を任されているうちに「接客」をする時間さえもらえなくなった。
何となく、この仕事に嫌気がさしてきていた。
ある日、新人のスタッフに仕事を教えている社員が所用で席を外した。
その時に俺は仕事を振られていてバタバタしてたのだが、新人スタッフのもとにお客が来て、テンパっているのは分かった。
質問されたから、それに答える。
正直な話、先輩スタッフとしては理想だったと思う。
その間に振られていた作業の手は止まった。
新人のスタッフに仕事を教えていたからだ。
時間の配分はできていたし、それを教えたら戻るつもりだった。
怒られたのは、俺だった。
「別の仕事はしなくていい」
そんな淡白な理由で。
それなら席を外さなきゃよかったし、お客に質問されてテンパっているのだから、そこを放置するのも違うでしょう、と正論をぶつけた。
それから、その社員は俺への対応が圧倒的に変わった。
別に俺は気にしてなかったけど、仕事場に個人的な感情を持ち込む人は昔から嫌いだった。
何となくこの仕事に冷めてきたのを実感していた。
そこで仲良くなったスタッフに起業を持ちかけられた。
↑それが、この時の記事だ。
自分の考えていた思考や、持っていた概念はとても脆いものだったと知った。
もう、その職場にいる意味が見つけられなかった。
こんな真面目一辺倒で、社会に時間も搾取される生き方をしなくていいんだ!
そう考えると胸は踊った。
自分への反抗、それが何より心地よいものだった。
自分の中で、自分に向けた革命が起きた。
真面目だった俺がGWを目前に、仕事を辞めた。
社員や周りのスタッフは止めてきたが、もう俺は止まれなかった。
今まで真面目に生きてきて、社会は、世界は俺に何かしてくれたか?
答えはNOだった。
マイナスが生じると、すぐに切ろうとしてくる。
つまり本当の意味で、使い捨てのコマなのだ。
そして、もっと言えば残業している社員でさえも、そのいい例だ。
もっと上の、もっと大きな立場によって命を握られている。
それが社会というピラミッドなのだ。
真面目に生きてきたのに、それが何にもならないことを何となく実感していた。
自分の生きてきた真面目さの概念に亀裂が入ったおかげで、自分の生き方の軸みたいなものがハッキリした。
生きてきた中でどこか、ずっとモヤモヤしていた。
接客業で繁忙期に休めないのは当たり前?そんなの誰が決めたんだ。
真面目に働くのが大事?苦労は買ってでもしろ?
勝手にそう言ってただけ。
思わされてるだけ。
誰かの言った常識に振り回されて、そこで思考を止めてしまっていただけ。
時給は、働いてから得る対価ではない。
自分の命を時間刻みで、会社に売っているというシンプルなもの。
そしたら、もっと自由に生きないと割に合わない。
世の中そんなに甘くないって、生きてたら誰かに言われたことがある。
そんなこと言うやつに限って、そういうことをやったことない、とか挑戦したことがない。
自分の夢を諦めて人の足を引っ張る思考停止人間。
世の中甘くないかどうかは、お前が決めることじゃねーよって。
そんなことを考えて、俺は生き方を変えるスイッチを押したんだ。
自分の歩みを止めない、この足は前に向かっている。
目は前を見ている。
だから進め。
もっと楽しく、もっと自由に、もっと強く。
もっと遊ぶ。
自分が今まで、真面目に生きてきたことを、ぶち壊す。
そして、その先で俺は笑っていたい。
だから人生を舐めて生きていけるってのを、俺が実証していくところ。
生きるのを放棄するのは愚かだ。
人生自体には勝ち負けはなく、そのレールから降りたものが負け。
俺はとんでもない借金を背負ったことがあるけど、生きてる。
生きてこれてる。
生きてれば何とでもなる。
生きていれば前に進める。
だから、死ぬより、今の自分を殺して新しい自分に生まれ変わる。
それが来世である必要なんて全くないのだから。
楽しく、笑って、全力で生きていく。